2008年07月15日

名短篇、ここにあり / 北村薫・宮部みゆき編 [書評]

名短篇、ここにあり名短篇、ここにあり
北村薫・宮部みゆき編

文庫本, 筑摩書房, 2008/01/09

 いきなり突拍子もない話で恐縮だが、本書を通読して評者は、かの小倉百人一首を連想した。

 小倉百人一首は、ご存知のとおり、藤原定家の撰とされる、天智天皇から順徳天皇に至る各時代の著名な歌人百人の歌を一首ずつ収めた歌集であり、今なおかるたや古典の入門教材として日本人に広く親しまれている。

 ところがその定家の撰について、古来、何人もの研究者や専門家が、ある疑問を呈してきた。というのは、小倉百人一首には、むろん誰もが認める秀歌も数多く収められているが、一方で後世にほとんど知られていない歌人の歌や、有名な歌人の作であっても、「この人ならもっといいのがいくらでもあるだろうに」と思えるような平凡な歌も、また少なくないのである。

 小倉百人一首を撰するにあたって、定家にはどんな思惑があったのか。この日本文学史上のミステリに対して、説得力のあるものからトンデモ話に近いものまで、これまで実にさまざまな説が唱えられてきた。その謎解きの経緯を眺めるのもまた一興である。

 閑話休題。本書は、ともに当代きっての人気作家、そして稀代の読書家としても知られる北村薫と宮部みゆきの選による、日本人作家の短篇のアンソロジーである。半村良、黒井千次、小松左京、城山三郎、吉村昭、吉行淳之介、山口瞳、多岐川恭、戸板康二、松本清張、井上靖、そして円地文子と、大御所がずらりと並んでいる。

 もっとも巷間からは、『名短篇、ここにあり』という口上めいたタイトル、そしてかの北村と宮部が編者であるということから、どんなにすごい名作・傑作が並んでいるのかと思ったら、案外さほどでもなくて拍子抜けした、という声が少なからず聞こえてくる。評者が上で小倉百人一首を引き合いに出した所以である。

 そう、本書は決して傑作中の傑作を集めたベスト短篇集ではない。帯の惹句に「意外な作家の意外な逸品」とあるとおり、むしろ、それぞれの作家の傑作選を編んだら、それに漏れてしまうかもしれない(と云うより漏れるだろう)、けれどそのまま埋もれさせてしまうには惜しい、主にそんな「隠れた名品」を集めた短篇集なのである。

 ここで本書に収められた作品すべてにふれるゆとりはないが、たとえば、「伝奇ロマン」と呼ばれる独自のジャンルを開拓したSF作家半村良に、『となりの宇宙人』のような落語めいたユーモア作品があるとは思いも寄らなかったし、評者は(歌舞伎が好きだったこともあって)戸板康二の演劇評論をずいぶん読んだものだが、その戸板が『少年探偵』のような児童文学ミステリを書いていたとはついぞ知らなかった。また「かちかち山」を下敷きにした小松左京の『むかしばなし』には、気の利いたパーティートークのような妙味があるし、松本清張の『誤訳』には、おそらくは清張自身の考えだろう、当時の詩作の趨勢に対する苦言を、登場人物の言葉を借りて吐露したくだりがあって、それもまた興味深い。

 しかし中でも圧巻と云うべきは、評者の個人的な好みを差し引いてもやはり吉村昭の『少女架刑』だろう。1963年(昭和38年)に発表されたこの作品は、献体された少女の死体が、標本を採られ、医学生の解剖実習に供され、やがて原形を留めぬ肉塊となって、火葬され納骨されるまでを、死者であるその少女の一人称で綴るという異色の短篇である。ある種グロテスクでもあり、またほのかなエロティシズムをも感じさせる即物的な描写の行間に、この上なく清冽な無常観が静かに漂っている。

 ちなみに初期の吉村は、精緻な光景描写を通して、不気味にして澄明な死のイメージを描いた純文学作品を多く物していた。『少女架刑』はその典型とも云える作品である。しかし吉村はその後、登場人物の心理描写を徹底的に排した文体で、歴史や人物を冷徹に描いたノンフィクション小説を書くようになり、現在ではもっぱら後者の印象が強い。そういう意味で、『少女架刑』もまた「意外な逸品」と呼ぶことができるのかもしれない。

 野球に関心のない方にはわかりにくい喩えで申し訳ないが、云ってみれば本書は、いずれ劣らぬ豪腕投手を一堂に集め、それでいて、それぞれの自慢の剛速球を披露させるのでなく、「この人にはこんな持ち球もあるんですよ」とばかりに、普段は滅多に見られない変化球の切れを敢えて競わせてみせる、そんな奇抜なイベントのようなアンソロジーなのである。剛速球の競演を期待していた観衆にしてみれば、「金返せ!」の声もごもっとも。しかし考えてみれば、これは並大抵の興行師にできる仕事ではない。本書は、彼らの作品を隅から隅まで味わいつくした北村と宮部だからこそ編めた短篇集なのである。それぞれの作家の代表作を知る読者には、本書に収録された作品を通して、きっと何かしら新しい発見があるに違いない。やや気負いすぎのタイトルの所為で、北村と宮部のそうした意図が読者に伝わりにくいのは残念だが、何より二人のその心意気を買いたい。

 ……と一応締め括ったうえでこう云うのも何だが、本書には『名短篇、さらにあり』という続編があり、実は、両者をあわせて読むことによって初めて見えてくるものがある。二冊を通して読めば、きっと上の段落のような云い訳めいた評など、まったく不要であることがわかるだろう。つまり本書の一見エキセントリックな選にも、然るべき理由があるのである。はたして現代の定家たる北村と宮部の本当の思惑はどこにあるのか。それについては次回触れることにしたい。

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