2008年07月21日

名短篇、さらにあり / 北村薫・宮部みゆき編 [書評]

名短篇、さらにあり名短篇、さらにあり
北村薫・宮部みゆき編

文庫本, 筑摩書房, 2008/02/06

 先に紹介した北村薫・宮部みゆき編『名短篇、ここにあり』の続編である。今回もまた二人の選による日本人作家の短篇12篇が収められている。ちなみに『ここにあり』、『さらにあり』の二巻を通じて、作品は、基本的に最近のものから順に並んでおり、続編となる本書では、昭和の高度成長期の作品に始まり、戦後の混乱期、昭和初期、そして大正時代のそれへと時代を遡ってゆく。

 所収作品の作者はすべて明治生まれの作家で、明治37年(1904年)生まれの舟橋聖一を筆頭に、永井龍男、林芙美子、久生十蘭、十和田操、川口松太郎、吉屋信子、内田百閨A岡本かの子、岩野泡鳴、そして明治5年(1872年)生まれの島崎藤村の11人である(川口松太郎のみ二篇収録)。

 さて、前刊『名短篇、ここにあり』は、帯の惹句に「意外な作家の意外な逸品」とあるとおり、現在も多くの読者に親しまれている、比較的最近の著名作家の「隠れた名品」を集めた短篇集だった。対照的に本書は、(こう云っては語弊があるかもしれないが)より長い時を経ているがため、今では人々の口の端に掛かることの少なくなってしまった作家の作品が主である。が、その分、それぞれの作家の本領が存分に味わえる、掛け値なしの傑作が揃っている。ちなみに本書の帯の惹句は、「面白いというのはこういう作品のこと」。やや控え目だった前回とは打って変わって、ずいぶん威勢のいい啖呵である。

 冒頭は、結婚式での「空気の読めない」スピーチをそのまま作品にした、舟橋聖一の『華燭』。こうして軽いユーモア小品から入る構成は、半村良の『となりの宇宙人』を前菜にした前刊と同じだ。以下、強く評者の印象に残った作品をいくつか拾ってみると、林芙美子の『骨』は、戦争で夫を亡くし、街娼に身を落としてなお赤貧に喘ぐ女の姿を描いて生々しい。岩野泡鳴の『ぼんち』では、電柱に頭をぶつけ死ぬかもしれないというのに、それでもなお執拗に芸者遊びに興じようとする主人公の姿に、人間の可笑しみと哀れさが入り混じる。久生十蘭の『雲の小径』、内田百閧フ『とほぼえ』は、ともに作家の持ち味が存分に味わえる、いわゆる「奇妙な味」の作品だし、川口松太郎の『紅梅振袖』は、人情噺でありながら、それをすでに遠くなってしまったものとして眺めるような視線にかえって共感を覚える。通読してみると、バリエーションが実に豊富で、さながら短篇小説のフルコースを味わっているかのようだ、と云ったら持ち上げすぎだろうか。

 本書のようなアンソロジーの利点はいくつかあるが、その一つに、それぞれの作家の全集でしかお目にかかれないような、知る人ぞ識る作品を取り上げることができる、というのが挙げられる。前刊ではその点が際立っていた。また、それまであまり馴染みのなかった、あるいは一度も読んだことのなかった作家の作品に、気軽に触れることができるというのも、アンソロジーの魅力の一つである。続編の本書では、その恩恵に浴した読者が多かったことだろう。もちろん評者もその一人である。そうして興味を覚えた作家があれば、いきおい、その作家の他の作品も読んでみたいと思うし、加えて本書の場合、それぞれの作品が書かれた時代背景に関心が向かえば、同じ時代の他の作家の作品を読んでみようと思う人もあるかもしれない。

 本シリーズは、健在の、あるいはまだ記憶に新しい作家については、彼らの意外な側面を示してみせ、一方、読まれる機会の少なくなりつつある作家については、彼らの真骨頂とも云うべき作品を紹介する。そればかりか、同時に、日本の近代文学史における短篇小説の流れを、ざっとではあるが俯瞰できる造りにもなっている。心憎い演出である。

 『ここにあり』、『さらにあり』のいずれも、巻末には、解説に代えて、北村と宮部が所収作品について語った対談が載せられている。お定まりの薀蓄を傾けた作品紹介ではなく、二人それぞれの作家ならではの作品の「読み」や、逆に純粋に読者としての思い入れなどが忌憚なく語られていて、これがまた楽しい。

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