2008年10月10日

こんな話を聞いた / 阿刀田高 [書評]

こんな話を聞いたこんな話を聞いた
阿刀田高

文庫本, 新潮社, 2007/08

 すべてが「こんな話を聞いた。」という一文で始まる、18のショートストーリーを収めた短編集。いずれもくだんの書き出しに続いて、ときに怪談めいた、またときに寓話のような、なんとも奇妙なエピソードがみじかく紹介され、それに続いて本編が綴られてゆく。

 それぞれの話の舞台はしかし、そんな逸話とは何の関係もなさそうな、ありふれた日常の風景だ。登場する人物も皆ごく普通の人たち。けれど決して紋切り型というのではない。登場人物の一人ひとりが実に丁寧に造形されていて、彼らの背後にそれぞれが歩んできた人生さえほの見える。簡潔で的確な描写によって、特別ではないがユニークな存在としての彼らがすっと脳裏に像を結ぶ。冒頭の逸話の余韻を残したまま、そうしてさりげなく始まるリアルな物語に、白昼夢からふと現実に引き戻されたような感覚を覚える。

 はじめに提示されるエピソードは、云わば「ここに落としますよ」と予告しているようなもの。しかし本編には、そんな気配は微塵も感じられない。読み進めるにつれ、「本当に冒頭の逸話と関わりがあるんだろうか」という疑念すら湧いてくる。が、そんな読者の戸惑いをよそに、物語は思いも寄らぬ展開を見せ、最後には冒頭の逸話とあざやかに符合する。ラスト3行で読者をあっと云わせる手練は、やはり阿刀田ならではだ。夢から覚めたと思っていたものが、再び夢の中に迷い込んだか、それとも本当は夢から覚めてなどいなかったのかと、不意に自分の立ち位置がおぼつかなくなってくる。話のバリエーションも豊富で、思わぬ結末に背筋が寒くなったり、機知に富んだ風刺に苦笑させられたり、人の記憶や深層心理の闇が身に詰まされたりと、印象もさまざまだ。

 ときに、これでもし冒頭の逸話がなかったとしても、それぞれの作品はじゅうぶん短編小説として成り立つだろう。短編の名手たる阿刀田の巧さや彼独特の「奇妙な味」は、それでも存分に味わうことができるはずだ。しかしそうした場合、この短編集そのものについては、「数多ある阿刀田らしい短編集のうちの一つ」で話が済んでしまうかもしれない。敢えてこのような形にしていることの意味を、あらためて考えてみると、本書にはそれだけに留まらない妙味があることに気づく。

 上にも書いたように、本書の所収作品は、いずれも最初に奇妙なエピソードを紹介し、それに続けて日常を舞台にした本編が語られるという、共通の構えをしている。加えて書き出しはすべて「こんな話を聞いた。」という語り手の一人称である。そのことによって本書は、単に興趣の似た作品を連ねるというのでなく、さながら『遠野物語』のように、あるいは『千夜一夜物語』よろしく、一人の語り手が次々に不思議な物語を語って聞かせているような印象を抱かせる。つまりそれぞれの作品を断片に、この短編集全体で一つの物語を成しているようにも見えるのである。

 そしてひとたびそのことが意識されると、上でユニークな存在としてはっきりイメージできると書いたそれぞれの登場人物が、途端に顔も名前もないワン・オヴ・ゼムとして、それまでとは違った意味合いを帯びはじめる。云い換えれば、ずっと他人事として眺めていたそれぞれの物語が、およそ誰もがその主人公たり得るものであることに気づかされ、「次はあなたが主人公かもしれませんよ」と囁く声が、どこからともなく聞こえてくるのである。ちなみに、2004年に潮出版社から単行本として出版されたときの本書のタイトルは『風の組曲』だった。

 阿刀田の短編には、名匠の手になる工芸品を思わせる独特の風合いがある。そこに、いかにも丹精を凝らしましたというような押し付けがましさはない。けれど矯めつ眇めつ眺めてみると、余計な部分がきれいに削り落とされ、それでいて、そこに込められた洒脱な可笑しみや洗練されたアイロニーが内側からにじみ出るようで、さらにその奥には、人間を深く洞察する鋭くも温かいまなざしが感じられる。眉根に皺を寄せて考える必要はない。ただ手に取るだけでその味わいが伝わってくる。まさに至芸である。

風の組曲風の組曲
阿刀田高

単行本, 潮出版社, 2004/09


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