2009年01月17日

きのこ文学大全 / 飯沢耕太郎 [書評]

きのこ文学大全きのこ文学大全
飯沢耕太郎

新書, 平凡社, 2008/12

 なんとも風変わりなタイトルだが、決して奇を衒っているわけではない。冒頭の「きのこ文学宣言」で飯沢は云う。
 図書館などに行くと、きのこについての本はたいてい自然科学のコーナーに分類されている。かねがね、人文系のきのこ図書がまったくないことに大きな不満を抱いていた。後で詳しく見るように、きのこのイメージは文学作品の中で見過ごすことのできないユニークな場所を占めている。
 どういうことか。

 きのこは実に多彩で奇妙な生き物だ。学名のついているものだけでも2万〜3万種、実際には50万種以上のきのこが存在すると推定され、その色も形も大きさも千差万別。食材や薬種として珍重されるものもあれば、深刻な中毒症状をもたらす毒きのこもある。およそきのこほど変異体の多い生き物は他になく、極言すれば、その一本一本が独立種だということさえできる。きのこについてはまだまだわからないことが多く、その存在自体がなんとも謎めいていて蠱惑的である。

 実は我々が普段「きのこ」と呼んでいるのは、胞子を散布するため地上に現れた子実体にすぎず、本体である菌糸の大部分は地下にあって目には見えない。地上のきのこを手がかりに、地下の菌糸の森に想像を広げてゆくことは、我々の目に映る世界を出発点に、「心」や「無意識」といった不可視の世界を描こうとする文学の営みを、メタフォリカルにさし示しているようでもある。

 また、きのこは中間性を具現した生き物である。植物が光合成によって無機物から有機物を作り出す生産者であり、動物がそれを食べる消費者だとすれば、きのこのような菌類は有機物を無機物に還元する分解者である。その意味できのこは、生物と無生物とを媒介するものだということができる。
 そしてここでやや強引に結びつけてしまえば、文学とは本来そのような「中間性」の領域で働くべきものなのではないだろうか。分類され、定義づけられ、がんじがらめに固定された世界の隙間に入り込み、思ってもみなかったもの同士を結びつけ、そこに見えない流れを作り出していく。生と死を媒介し、生の中に死を、死の中に生を育てあげていく。それはまさしく、自然界におけるきのこたちの役割と同じなのではないか。となると、ここになんとも奇妙な結論が導き出されてくる。すなわち――文学はきのこである。あるいは、きのこは文学である。
 そう「宣言」したうえで飯沢は、古今東西の小説や詩や戯曲、またエッセイ、漫画、絵本などから、何らかのかたちできのこをテーマにしている作品を小事典形式で紹介してゆく。

 そこでまず驚かされるのは、その渉猟範囲の広さだ。本書に取り上げられた執筆者たちをざっと眺めてみただけでも、その広範さにめまいがしそうだ。宮澤賢治、夢野久作、稲垣足穂、渋澤龍彦、筒井康隆、小川洋子、川上弘美、エドガー・アラン・ポー、ウラジーミル・ナボコフ、ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズ、レイ・ブラッドベリ、イタロ・カルヴィーノ……。『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などの古典にも目を向け、映画『マタンゴ』や松本零士『男おいどん』に登場する「サルマタケ」にも言及し、さらには筋肉少女帯の「キノコパワー」へと、旺盛に視野を広げてゆく。

 だがそれ以上に驚くべきは、それぞれのコメントから窺える飯沢の文学に対する造詣の深さだ。たとえば泉鏡花の『茸の舞姫』を、飯沢は「古今東西の「きのこ文学」の白眉」と称え、「きのこの妖しさとエロティシズムが、鮮やかなイメージとして脳裏に焼き付く傑作」と評したうえで、鏡花の小説に現れるきのこのイメージは「懐かしくも哀切な女性の記憶と結びついて」いると分析し、鏡花にとってそれは「母なるものの化身」だったのかもしれないと語る。

 あるいは『ピーターラビット』シリーズの作者ビアトリクス・ポターについては、ポターがかつてきのこ学者を志しながら、夢破れて童話作家の道に進んだエピソードを紹介し、その後の彼女の作品に、若い頃に打ち込んだきのこ研究の成果が活かされていることを見て取る。一方で、それぞれの作品の中にきのこを登場させながらも、ゲーテにとってのきのこは「生まれては腐って無くなるはかなくも虚しい存在」に過ぎず、村上春樹にとっては「松茸ごはん以上のものではないようだ」と指摘する。アングロ・サクソン系の民族に根深いとされる「マイコフォビア(きのこ嫌悪症)」や、ロシア人がきのこ料理に示す異常な執着ぶりを例証した記述もまた興味深い。

 飯沢の文章は端正で品がよく、これだけ蘊蓄を傾けながらも、衒学的な印象をまったく感じさせない。該博な知識と深い文学的素養に裏打ちされた知的な面白さと、彼がきのこに寄せる愛情の深さが気持ちよく伝わってくる。「きのこ」という切り口から、こんなにも深遠で複雑な文学の「曼荼羅図」が見えてこようとは、いったい誰が想像し得ただろう。上に紹介した「きのこ文学宣言」を、飯沢は「ややトリッキーなマニフェスト」と自嘲するが、評者はむしろ、その言葉に目からうろこが落ちる思いがした。「文学はきのこである。あるいは、きのこは文学である。」こんなにも端的で明解な文学の定義がかつてあっただろうか、と。

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この記事へのコメント

この紹介文を読んで
僕もこの本読んでみたくなりました。

Posted by 名無し at 2009年01月18日 11:16
コメントありがとうございます。

そう云っていただけると、記事をアップした甲斐があります。

上にもご紹介したとおり、『きのこ文学大全』は好著でした。ご一読をおすすめします。

Posted by 佐吉 at 2009年01月18日 19:44

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世界侵略進行中
冒頭の「きのこ文学宣言」からして愉快だ。 著者は、きのこという不思議な生き物に魅了され、きのこの本質に迫ろうとするうちに、きのこのも...

23時59分の揺らぎ at 2009-01-19 21:41

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