2009年03月24日

針の眼 / ケン・フォレット [書評]

針の眼針の眼
ケン・フォレット / Ken Follett
戸田裕之

文庫本, 東京創元社, 2009/02

 《ドイツはほぼ完璧に騙されていた――ただヒトラーのみが正しい推測をしていたのだが、彼は自分の勘を信じることをためらった……》

 エピグラフ(題辞)には、A・J・P・テイラー著『英国史1914-1945』の一節が引かれている。

 第二次大戦中の1944年6月6日、米英連合軍は、「史上最大の作戦」として知られるノルマンディ上陸作戦を決行し、戦局を決定づける成果を収めた。作戦の準備にあたって連合軍は、ドイツ軍に上陸地点がノルマンディではなくパ・ドゥ・カレーであると思い込ませるための大規模かつ周到な偽装作戦を展開した。中でもとりわけ奏功したのは、ドイツ軍から連合軍に寝返った二重スパイたちの存在だった。連合軍は、ドイツ軍が送り込んだスパイをことごとく摘発し、さらにその一部を指揮下に置き、ドイツに偽の情報を送らせていたのである。

 と、ここまでは紛れもない史実である。だが一方で、ごく少数ながら、イギリス情報部の捜査の網を掻い潜ったスパイがいたことも知られている。もしその中に、ドイツに真の情報を伝えた者が一人でもいたとしたら……。

 イギリス名ヘンリー・フェイバーを名乗るその男は、針のように細く鋭いナイフ、スティレットを得物とすることから、コードネーム《針》と呼ばれるドイツ情報部きっての辣腕スパイである。連合軍によるヨーロッパ大陸侵攻の気配が強まるなか、守備隊の配置に頭を悩ませていたヒトラーは、全幅の信頼を寄せる《針》がもたらす情報にすべてをゆだね、彼からの連絡を心待ちにしていた。

 ドイツ情報部の指示を受けたフェイバーは、連合軍の機密情報を入手することに成功する。その証拠を収めたフィルムをヒトラーに直接手渡すべく、フェイバーはあらゆる手段を使って祖国を目指す。一方、イギリス軍情報部MI5は、まるで藁の中から一本の針を探し出すように、ほんのわずかな手掛かりからフェイバーの足取りをつかみ、総力を挙げて彼を追跡する。MI5はじわじわとフェイバーを追い詰めてゆくが、フェイバーは巧みにその指のあいだをすり抜け、やがて友軍のUボートが待つ海へ船を出す。ところが激しい嵐に遭遇し、船は難破。フェイバーは荒れ果てた小島に流れ着く。そこは、両足を失った元イギリス軍の戦闘機乗りとその妻、そして幼い息子と老人の四人だけが暮らす島だった……。

 スパイ・サスペンスの王道をゆく作品と云ってもいいだろう。片や、冷酷無情にして大胆不敵、冷静な判断と俊敏な身のこなしによって、あらゆる窮地を切り抜けてきたスパイのプロフェッショナル。片や、明晰な頭脳でもって緻密な推理を展開する大学教授ゴドリマンと、空襲で妻を亡くし、ドイツ軍への復讐に燃える若き捜査官ブロッグズを擁するMI5。互いに祖国の命運を背負った両者の対決は、ひりひりするような緊張と波乱に満ちた展開の連続で、最後まで一ページたりとも気が抜けない。

 ときに、冒険小説においては、ややもするとそのあまりにも波乱万丈な展開に、かえって興が醒めてしまうことも珍しくない。しかしこの作品には、そんな作り物くささが鼻につくところが一切ない。そしてその圧倒的なリアリティを支えているのが、登場人物一人ひとりのこの上なく丁寧な造形だ。主人公フェイバーはもちろんのこと、主要な人物のほとんどが、彼に勝るとも劣らないほど、ユニークな存在として鮮やかに立ち上がってくる。ほんの一場面にしか登場しない端役でさえそれぞれに印象的で、脳裏にくっきりと像を結ぶ。そんな登場人物たちの確かな存在感が、物語世界を分厚くし、この歴史の「if」を描いたフィクショナルな冒険小説を、下腹にずしりと響くような読みごたえのあるものにしている。

 孤島に漂着したフェイバーは、何も知らない元パイロットの妻ルーシィに助けられる。命を賭した危険の中で絶えず冷徹に自らを律してきた男と、冷えきった夫婦関係に悩み、絶望しかけていた女。二人の出会いは互いの乾いた人生に小さな衝撃を与え、ずっと酷薄な仮面の下に隠されていたフェイバーの素顔さえ見え隠れしはじめる。そしてそれは、物語自体のトーンにも微妙な変化をもたらし、同時に新たな緊張感を産む。そうして物語は、思いも寄らないクライマックスに向かって怒濤のごとく疾走してゆく。そこまで来ればもう、ページを繰る手を止めることはできない。

 なお、今回が三度目の文庫化となるこの作品は、1979年にMWA(アメリカ探偵作家クラブ)最優秀長編賞を受賞した、フォレットの代表作とも云える作品である。1981年にはリチャード・マーカンド監督で映画化もされている。主人公のフェイバーを演じているのは、かの超個性派俳優ドナルド・サザーランド。名脇役として知られる彼の往年の怪演とあわせて楽しむのも、また面白いかもしれない。

Eye of the NeedleEye of the Needle
Ken Follett

マスマーケット, Avon Books (Mm); Reissue版, 2000/09
針の眼針の眼
出演 ドナルド・サザーランド, ケイト・ネリガン
監督 リチャード・マーカンド

DVD, 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン, 2008/09/05

※ 本書は「本が好き!」を通じて献本していただきました。

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