![]() | 江戸アルキ帖 杉浦日向子 文庫本, 新潮社, 1989/04 | |
仕事で忙しい日々が続いている。たまには喧騒とは無縁な場所で、のんびり散歩でもしたいものだが、生憎佐吉んちの周辺には、ゆったり時間を過ごせる場所は少ない。どこに行っても人やクルマでいっぱい。公園などは子供を連れたお母さんたちの聖域と化していて、そんなところに野郎が一人で顔を出せば、たちまち胡乱げな視線を浴びせられるだろう。とかくこの世は住みにくい……。
そんなことを考えていて、ふと思い出したのがこの本だった。杉浦日向子の『江戸アルキ帖』。彼女のあまりにも早すぎる逝去はまだ記憶に新しい。作品においてのみならず、自らの生き方によって、江戸の人々の暮らしぶりを今に伝えた彼女が、まだ漫画家を名乗っていた頃に出されたこの本を、久しぶりにひもといてみる。
『江戸アルキ帖』は、タイムマシンに乗って、足の向くまま気の向くまま、江戸のあちこちを散歩した様子を綴った、いわば空想上の絵日記である。元々は昭和60年(1985年)から63年(1988年)にかけて『サンデー毎日』に連載されていたイラスト入りのコラムで、いずれも見開きでカラーのスケッチとともに127編が収められている。スケッチの画材は色鉛筆だろうか、江戸の市井の様々な場面が、実際にその場でスケッチしたかのように活き活きと描かれていて、さながら杉浦版「江戸百二十七景」といった風情がある。いくつか引いてみる。なお、日付は旧暦である。
天保五年八月二十五日<霧雨>四谷
神楽坂の毘沙門さんをお詣りしてから、四谷を散歩した。
この辺の家は、どこも大きな庭木を植えているので、町全体が水ゴケの繁茂した池のようだ。霧雨が降っていたから、なおさら、そんなふうに見えるのかもしれない。
あちこちから虫の声がする。向島ならいざ知らず、人家の密集した四谷に、こんなに虫がいるとは意外な気がした。
安政三年十一月二日<晴れ>猿若町ウチみたいのはちょっと特殊だが、世にあるブログの大半は日記であり、そうした日記を読むのを毎日の楽しみにしている人も多いと思う。『江戸アルキ帖』の一遍一遍もちょうどそれくらいの長さで、現代の誰かの日記を読むのと同じ感覚で楽しめる。月並みなコメントで恐縮だが、自分も江戸の町を歩いているような気分になれる。今もどこかに、そんな江戸の町があるんじゃないかとさえ思えてくる。
顔見世興行中は、一度は芝居町へ行ってみるものだ−というから、浅草・猿若町まで出かける。
月に見とれながら、芝居茶屋の通りにさしかかると、どうも自分の歩く方向は、大勢の流れとは逆だ。それもそのはず、芝居はハネて、皆々上気した顔を宙に浮かして帰路に着いているのだ。
シアターといえば、夜のイメージだから、出かける時刻を間違った。江戸の芝居は朝からはじまる。
イラストは、庶民の暮らしの様々な場面のスナップや、四季折々の風景を描いていて、それをパラパラと眺めているだけでも楽しい。それらをここでご紹介できないのがとても残念だ。機会があれば、ぜひ一度手に取ってページを眺めてみてほしい。杉浦日向子は、今もきっと、我々の住む場所と地続きのどこかで、江戸の街を歩いている。
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