2006年04月30日

追憶の夏 水面にて / H. M. ヴァン・デン・ブリンク [書評]

追憶の夏 水面にて追憶の夏 水面にて
H. M. ヴァン・デン・ブリンク / H. M. van den Brink
金原瑞人

単行本, 扶桑社, 2005/12

 ボート競技にかける若者の姿をみずみずしく描いた青春小説。とはいえ、いわゆるスポーツ小説やジュブナイルというのとは違う。これは、短いながら本格的な文芸作品である。

 新聞記者、TVディレクターという経歴を持つ著者H.M.ヴァン・デン・ブリンクの第一作となるこの作品は、本国オランダでベストセラーとなり、アメリカをはじめ他の多くの国でも高い評価を得ているという。邦訳の訳者金原瑞人も、自身のエッセイ『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』の中で、この作品を『短いけれど、数年に一冊といってもいいくらい完成度の高い作品で、本好きにはとても魅力的な本』と評している。

 第二次大戦前夜のオランダの田舎町。慎ましい生活を甘受する両親のもとに生まれたアントンは、幼い頃から、閉塞した日常の中、唯一運河を流れる水の美しさに惹かれていた。きらめく水への憧れは日に日に募り、やがて成長したアントンは町のボートクラブに入会する。彼はそこで、優秀なチームメイトダーヴィッドとともにドイツ人コーチに見出され、舵手なしペアの選手として厳しいトレーニングに臨む。はじめはその大抜擢に戸惑っていたアントンだったが、自分たちでさえ気づかないうちに目覚しい成長を遂げた二人は、出場するレースに連戦連勝、ついには間近に迫ったオリンピックさえも視野に捉える。そして1939年、三人は、彼らにとって最後の、そして永遠に終わることのない夏を迎える……。

 作品の舞台はいたってシンプルであり、そのかなりの部分がボート競技やその練習の様子の描写に割かれている。物語はあくまでアントンの視線で語られ、そしてその簡潔で静謐な描写の中に、若者のさまざまな思いが、次々と鮮やかに浮かんでくる。ボートを思いどおり操れたときの、ボートが自力で加速しているかのような爽快感。パートナーと二人で一つの動きを作り出すことができたときの、言葉に言い表しがたい高揚感。肉体の限界を超えてしまうことへの恐怖。パートナーに寄せる、ときに愛情にも近い想い。クラブ内で感じる孤独の寂しさと心地良さ。性格も普段の生活もばらばらな三人の信頼関係の確かさと危うさ。自分が何かを成し遂げられるかもしれないという心の躍動……。そこには、かけがえのない日々の輝きと翳りが、分かちがたく幾重にも織り込まれている。

 物語は、大戦勃発後の主人公の回想である。彼は今、冬の夜の荒廃した街に一人佇み、すべてが躍動していたかつての夏のきらめきの残滓を見つめている。そのあまりにも対照的な二つの情景の対比が、それぞれの印象をより鮮明にする。無論、彼らが目指していた1940年のオリンピックは、大戦によって中止になっている。アントンの追憶に耳を傾けるとき、我々は、彼らの夢が無情にもついえてしまったことを知っている。もう手が届かないあの夏の日々。しかしそこには、まさに今、その手でじかに触れているかのような、確かな手触りがある。

 人は誰しも夢を見る。だが、それはときにはかなくついえてしまう。しかし、そうなった後にも強く記憶に残るものがある。失われた夢は、失われてしまったがゆえに、悲しいまでに美しいのかもしれない。そして小説とは、過ぎ去った日々をこうして思い出すことなのかもしれない。この作品は、そんなことさえ思わせる。読書の愉悦を存分に味わわせてくれる、印象深い一冊である。

On the WaterOn the Water
H. M. van den Brink (著), Paul Vincent (翻訳)

ペーパーバック, Faber and Faber, 2001/01/31

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この記事へのコメント

佐吉さん、おはようございます。
小説の中だけでなく、失ってしまったからこその美しさというものは、
日常のあちこちに見つけることのできるものだったのですね。
それが夢だったり、記憶の中の青春だったり。懐かしい景色だったり。
或いは、共に過ごした仲間とか。家族とか…
そんなことを思いめぐらせて、小説ってよいナと思った私でした。

Posted by ましろ at 2006年05月01日 05:40
コメントどうもありがとうございます。外出やら雑用やらでお返事が遅くなってしまいました。申し訳ありません。

金原氏が絶賛していたから、というのではありませんが、この作品は、佐吉にとって久々の大収穫でした。この作品は、特に意匠が斬新というのでもないし、野心作というのでもない。人によってはあっさり読み流してしまうかもしれません。ですが私にとっては、シンプルながら、読書の楽しみのエッセンスを味あわせてくれた作品でした。

日本でももっと多くの人に良い作品だと思うのですが、あまり知られていないようなのが、ちょっと残念です。

Posted by 佐吉 at 2006年05月04日 22:05

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まっしろな気持ち at 2006-05-01 05:41

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