2006年07月24日

影を踏まれた女 / 岡本綺堂 [読書日記]

影を踏まれた女影を踏まれた女 新装版 怪談コレクション
岡本綺堂

文庫本, 光文社, 2006/05/11

 「泣いた」、「泣けた」という読書感想文を見ると辟易する。いや、何も本を読んで泣くのがいけないというのではない。そういう需要は確実にあるし、ならばそういう作品もあって然るべきであり、それについて「泣いた」、「泣けた」という感想が書かれるのもまた当然である。しかし時に、どう考えてもその手の話とは思えないような作品に対してさえ、「泣いた」、「泣けた」とわめく感想文があるのを目にする。そういう感想文に出くわすと、どうにも辟易してしまうのである。

 もちろん作品の解釈や受け止め方は人によって違う。それはわかる。しかしそれでもなお、その作品のどこでどうして泣けるのか、まったく理解できない場合がある。え? それは単にオマエが異様に冷淡な人間だからだろうって? ふむ。まあ、それもあるかもしれん。が、必ずしもそればかりが理由ではなかろう。

 有り体に云えばこういうことだ。

 ある作品に何かしら感銘を受ける。しかし、それがどういう種類のものなのかを自身で捉えることができない。あるいはそれを上手く表現する言葉が見つからない。がために、「泣いた」、「泣けた」という云い方でとにかく感銘を受けたということを宣言する。感銘の深さはどれだけ泣いたか(「さめざめと泣いた」とか「ボロボロ泣いた」とか)によって表現する。感想文とはそもそもそういうものであり、なにより「泣ける」作品こそがすぐれた作品である。したがって「泣いた」、「泣けた」は作品に対するオールマイティな賛辞である。

 本人がそれと自覚しているかどうかは知らんが、そんなふうな感想文があちこちに転がっているように、佐吉には思えるのである。

 ひねくれ者の佐吉は、そういう感想文を見るたびに、これでいったい何を云ったつもりなんだろう? と思ってしまう。この人にはそういう直線的な評価基準しかないのだろうか? と思う。さらには、その手の感想文の裏には、「わたしはこの作品で泣くことができるほど感受性の豊かな人間なんですよ」という自慢げな主張が(本人にその自覚があるかないかはともかく)隠れているんじゃないか、つまり、語りたいのは作品ではなく、「本を読んで泣いている自分」なのではないか、といううがった見方さえしてしまう。

 ところで、これとちょっと似た現象が他にもある。それは、ホラー小説、怪奇小説、怪談などと呼ばれるジャンルについてである。このジャンルに関しては、「怖いか怖くないか」だけで作品が語られてしまうことがままある。まあ、「びっくりさせてくれなければ怪談じゃない」という考え方も、確かにわかりやすくはあるのだけれど……と、かなり強引な展開ではあるが、つまらぬ前振りはこれくらいにして、そろそろ本文に入る。

 岡本綺堂の『影を踏まれた女』を読む。綺堂は、『半七捕物帳』で知られる明治から昭和にかけて活躍した小説家・劇作家であり、(かのコナン・ドイルが現役バリバリだった)当時の外国文学にも精通した、怪奇もの、探偵ものの名手である。その綺堂の怪奇短編集が、最近光文社文庫から『怪談コレクション』として刊行された。

 『影を踏まれた女』はその一冊目であり、この本には、大正13年から14年にかけて雑誌『苦楽』などに掲載された怪談12編が収められている。

 まだ雪の残る早春の宵。とある人物によって一部屋に集められた、互いに面識もなく、その男の知り合いという以外には何の共通項もない老若男女。その者たちが、百物語よろしく、それぞれの知る怪談を順番に物語ってゆく……という設定の連作短編集である。

 怖いか怖くないかと云えば、はっきり云ってさほど怖くはない。いずれも「怖い話」というより「不思議な話」なのである。そもそも読者をびっくりさせてやろうという話ではない。しかし、「だからつまらない」などと考えたらとんでもない間違いである。

 佐吉は綺堂の作品を読むのはこれが初めてである。まずその小気味好い文体に驚く。現代に書かれた小説と云っても通用しそうな、シンプルでリズミカルな文体。そしてその簡潔でまったく無駄のない描写の中に、物語の世界がすっと浮かび上がってくる。見えない手にそっと手を引かれるようにして、読者は静かにその世界に足を踏み入れてゆく。

 おどろおどろしい異形のものが登場したり、陰惨な因果応報が描かれたりという場面はほとんどない。だが、綺堂の巧みな語り口に身を任せ文章を辿るうち、いつの間にか現実と異界との境界を踏み越えていて、気がつくと妖(あやかし)が背後にものも云わず佇んでいる。読み終えて「ああ、怖かった」というのでなく、ぞわぞわするような、ある種違和感にも似た恐怖が、足元から、あるいは背中から染みこんできて、そこに留まり続ける。そんな作品なのである。

 『綺堂の描く怪談の世界は、時代を超えて、怖い!』という帯の宣伝文句も、あながち誇大広告ではないようだ。上にも云ったように、どれもが現代でも通用しそうな作品である。そして同時に、やはり現代に書かれた時代小説とは違う、同時代ならではの趣(おもむき)がある。これに続く『白髪鬼』、そして『鷲』ももちろん購入した。

 日本の夏はやっぱり怪談だねえ。そして怪談と云えば、岡本綺堂だねえ。思わずそんなことを云ってしまいたくなる佐吉なのであった。

白髪鬼白髪鬼 新装版 怪談コレクション
岡本綺堂

文庫本, 光文社, 2006/06/13
鷲鷲 新装版 怪談コレクション
岡本綺堂

文庫本, 光文社, 2006/07/12


関連(するかもしれない)書籍

この記事へのコメント

アマゾンのレビューは最近その傾向がありますね。
少し前までは本当に参考にできる頼りになるものが多かったと思います。
これも一般化の弊害なのかな〜と思う次第です。
クオリティーの維持って本当に大変なんですよね。

Posted by 九賀コリン at 2006年08月07日 12:15
九賀コリンさん、はじめまして。コメントどうもありがとうございます。

そうですね。Amazonのカスタマーレビューにも、最近はそんなのが目立つようになりましたね。そうした文章が多く目につくようになり、それを見た人がまた一所懸命自分の感情を吐露する。そんな悪循環を招いているところがあるように思います。

もちろん私自身、他人様の文章をあれこれ云う立場にはありませんが、少なくとも自分で文章を書く際には、なるべくそうならないよう気をつけたいと思います。

Posted by 佐吉 at 2006年08月20日 10:02

コメントを書く
お名前: [必須]

メールアドレス:

ホームページURL:

コメント: [必須]



この記事へのトラックバック


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。