2007年05月19日

死ぬための教養 / 嵐山光三郎 [読書日記]

死ぬための教養死ぬための教養
嵐山光三郎

新書, 新潮社, 2003/04/10

 「はじめに」で嵐山はこう語る。
 宗教を信じられない人間には、ただ「死ぬための教養」だけが必要となります。いざとなったら、死に対する教養のみが、自己の死を受け入れる処方箋となるのです。死は、思わぬときに、ふいに襲ってきます。それは恐怖であるとともに最後の「愉しみ」ですらあるのです。宗教を信じなくとも、平穏に死を受け入れるためには、どんな知恵をつければいいのか。この本は読者にむけての処方箋であると同時に、私自身へむけての覚悟でもあるのです。
 また「あとがき」にはこう書かれている。
 「死ぬための教養」は、百人いれば百通りが必要であって、それは各自ひとりひとりが身につけていくしかない。幸い、先人たちには、死についての深い考察をなした人がいて、そういった識者の本を吟味熟読して読み、自分なりに納得するしかないのだ。
 これらの文句とタイトルに惹かれ、本書を読んでみた。が、期待はずれだった。

 本書は、吐血や交通事故によって、嵐山が(本人曰く)死にかけた、あるいは少なくとも死を意識した折に触れて読んだ46冊の本(うち自著3冊)を紹介した、ブックガイドを兼ねたエッセイである。ただし、嵐山自身の死についての考察は「はじめに」と「あとがき」に垣間見られるのみで、本文はもっぱら、彼の読書体験を綴ることに終始している(もっとも、だからこそ読んでみようと思ったわけだが)。

 だが、それぞれの本の紹介にしても、「これはすごい!」、「なるほど、そのとおり!」と連呼するばかりで一向に感想文の域を出ず、通読してみると、ブックガイドとしても成功しているとは思えない。

 しかしながら、取り上げられた46冊の中には、佐吉もかつて読んだことのあるものが何冊かあった。養老孟司『唯脳論』、竹内久美子『そんなバカな! 遺伝子と神について』、松井孝典『地球・宇宙・そして人間』、柳澤桂子『われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学』、エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 死とその過程について』……。

 と書いてみて思い出した。以下、思いっきり個人的な話で恐縮だが、佐吉がそれらを読むようになったそもそものきっかけは、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んだことだった。そこから佐吉は、動物行動学、霊長類学(サル学)、遺伝学、進化論、免疫学、解剖学、生命科学、生命倫理、臨死体験、さらには科学史、ゲーム理論、宇宙論へと興味の対象を拡げていったのだった。

 もっとも、読んだのは一般向けに書かれたものばかりだったし、数も決して多くはない。いずれもひどく凡俗な好奇心から読んでいたにすぎないし、そうして読んだ中にはオカルトまがいのものもあったかもしれない。だいたい『利己的な遺伝子』の存在を知ったのだって、かつてフジテレビで深夜に放送されていた科学バラエティ番組『アインシュタイン』によってなのである。佐吉の関心の程度も知れよう。

 ついでだからさらに脱線しておくと、こうして振り返ってみると、その道程の要所要所に立花隆の存在があったことに気づく。『宇宙からの帰還』、『脳死』、『脳死再論』、『脳死臨調批判』、『精神と物質』、『サル学の現在』、『マザーネイチャーズ・トーク』、『臨死体験』、『脳を極める−脳研究最前線』……。80年代から90年代にかけての彼の著作である。

 当時、佐吉は立花にかなり傾倒していた。あるときは彼の著作にモロに感化され、またあるときは「あ、立花隆も同じことに興味持ってる!」と手前勝手に感激したものだった。『利己的な遺伝子』が好奇心の始動装置だったとすれば、立花の著作はその加速装置だったと云えるだろう。ああ、何もかもみな懐かしい……と長々と、本論とは関係のないどうでもいい話、相済まぬ。

 さて、そんなふうに佐吉は、本書を読んで、かすかな郷愁とともに、今は実家の書庫(とは名ばかりの物置)に眠っている、かつて佐吉を夢中にさせた本たちを思い起こすことになったのだが、そのタイトルを並べてみると、なるほど佐吉も蒙を啓かれる思いがした本ばかりである。そうしてみると、本書に紹介された46冊には、他にも読む価値のある本が含まれているかもしれない。本書を読むかぎりではどうにもぴんとこないのだが、それは嵐山の文章からそのことが伝わってこないだけで、彼の選択自体には見るべきものがあるのかもしれない。

 嵐山は「あとがき」の最後で、彼の祖母の言葉を紹介している。曰く、
 祖母は、九十九歳のときに「いままで好きなことをしてきたから、この世に未練はないが、死んだことはないから、死ぬとはどういうことなんだろうねえ」と言いながら死んでいった。こうなると死ぬことが愉しみにさえ思えてくる。死への考察は、人間の最高の興味の対象であろう。
 本文にはおよそ響くところがなかったが、これは含蓄のある言葉である。自分自身の生に満足し、そのうえで最後の未知の体験として、自らの死に思いを馳せる。願わくば自分もこんなふうでありたいと、佐吉も思った。

関連(するかもしれない)記事
納棺夫日記 増補改訂版 / 青木新門 [書評]
死んでいる / ジム・クレイス [書評]

関連(するかもしれない)書籍

この記事へのコメント


コメントを書く
お名前: [必須]

メールアドレス:

ホームページURL:

コメント: [必須]



この記事へのトラックバック


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。