![]() | さゆり 上 アーサー・ゴールデン / Arthur Golden 小川高義 単行本, 文藝春秋, 1999/11 |
舞台は昭和初期から戦後にかけての京都。貧しい漁師の家に生まれた娘千代は、祇園の置屋に身売りされ、後に彼女のよき理解者となる「会長さん」との出会いをきっかけに、祇園でも指折りの芸妓さゆりへと成長してゆく。その千代=さゆりの半生と、芸妓であるがゆえに果たせない「会長さん」への思いを、当時の祇園の細やかな描写を背景に、老女の回想録として描いた異色の海外小説。原題を『Memoirs of a Geisha』という。
もちろんフィクションであるが、米国人男性作家が、ありがちな誤解や偏見に陥ることなく、第二次大戦前後の祇園とそこに生きた芸妓の姿を、彼女自身を語り手にリアルに描いたことで話題となり、本国ではベストセラーになっている。しかしこと日本においては、そのことだけでこの作品を評価してしまうのは少々もったいないような気がする。
訳者あとがきで小川高義も云っているとおり、現代の多くの日本人にとっても、花柳界は決して馴染みの深い世界ではないだろう。米国人読者と比べても、我々一般の日本人読者が、戦前戦後の祇園についてとりわけ多くを知っているとは思えない。だから評者も含めた多くの日本の読者が、そうした理由でこの作品を称賛するのは、どこか見当はずれのようにも思えるのである。
外国人読者と比べて、日本人であるがゆえにこの作品からより深く感じ取れるものがあるとすれば、それは、その時代や場所の匂いのようなものではないだろうか。花柳界そのものについてはともかく、昭和初期や戦前戦後という時代らしさ、祇園らしさについては、日本人であれば、それを直接には体験していなくても、おのずと敏感に嗅ぎ取ってしまうものがあるはずである。そしてこの作品は、そうした時代や場所の匂いを実に豊かに湛えている。つまりこの作品においては、考証の綿密さ以上に、そこに構築された物語世界こそが、我々日本人読者にリアリティを感じさせるのである。
そしてそれは、小川の訳に負うところが大きいだろうと思う。邦訳で読むこの作品は、自然な京都弁で書かれた会話文は元より、地の文においても隅々に至るまで細やかな配慮がなされていて、日本人女性の回想としてまったく不自然なところがない。その息づかいまでもが伝わってくるようである。そして、そこから当時の祇園の様子が、眼前にありありと浮かんでくる。さすがに話の運びやものの例え方などには、やはり西洋人のものと思える部分が見られないでもないが、しかしそれさえも、長く海外に暮らした老女の回想という設定によって、納得できてしまうところがある。
プロット自体は、主人公の成長と成功を描いた物語として特に斬新なものではないし、恋愛小説としても今ひとつ奥行きが感じられない。善玉、悪玉それぞれに魅力的な登場人物を何人も配していながら、その描き方もどこか中途半端に終わってしまったような印象を受ける。しかしこの作品は、翻訳小説でありながら日本的情緒を豊かにたたえているという点で新鮮だし、同時に、多くの日本人が抱いているであろう花柳小説のイメージからまったく自由な、独自のスタイルで書かれているという意味でも新鮮である。何より物語全体を通して、匂いや温もりや手触りまでも感じられそうなほど鮮やかに、その世界が立ち上がってくるのが見事だ。その、まるで自分自身がその場にいるかのような臨場感こそが、この作品の、とりわけ邦訳の最大の魅力である。
![]() | さゆり 下 アーサー・ゴールデン / Arthur Golden 小川高義 単行本, 文藝春秋, 1999/11 |
![]() | さゆり 上 アーサー・ゴールデン / Arthur Golden 小川高義 文庫本, 文藝春秋, 2004/12 |
![]() | さゆり 下 アーサー・ゴールデン / Arthur Golden 小川高義 文庫本, 文藝春秋, 2004/12 |
![]() | Memoirs of a Geisha Arthur Golden ペーパーバック, Vintage, 1998/06/04 |








わたしも、邦訳の「自然な京都弁」の方でも是非読んでみたいです!
ほんとうに 翻訳が素晴らしいと思いました。
原書を読むのには、ものすごい想像力を要するのでは・・・なんて 思うくらいに。
字幕も京言葉ならいいのになぁ。
この作品については、別のところで小川氏のインタビューを読んだことがあるのですが、その中で彼は、もともと京都の生まれでないがゆえ、まるで外国語を学ぶように京都弁を学んだこと、高齢の芸妓さんに実際にあって話を聞いたことなどに触れ、日本人から見て「さすがにこれは変だろう」と思われる点について、作者に質問をしたり、あるいは自分で調べたりして、日本人が読んで違和感のない作品に仕上げることに心を砕いたと語っています。
こうした舞台裏から作品を評価すること、あるいは翻訳作品において訳者の顔がのぞくことはあまり望ましいことではないのかもしれませんが、ことこの作品に関しては、彼の訳なくしては成り立たなかっただろうという気がします。
映画については、正直、そうした配慮は望めないだろうとも思うのですが、それでもやっぱり楽しみにしています。
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