2005年03月22日

博士の愛した数式 / 小川洋子 [書評]

博士の愛した数式博士の愛した数式
小川洋子

単行本, 新潮社, 2003/08/28

 数学の世界にのみ生き、その記憶は80分しかもたない、しかし子供に対しては手放しの愛情を示す元大学教師の「博士」。そこには人間のおよそもっとも純粋で無垢な姿がある。家政婦である「私」は、「博士」の奇行に戸惑いながらも、その内奥に広がる世界に惹かれてゆく。が、「博士」にとってのそれは、純粋であると同時にそこから永久に抜け出すことのできない深遠な闇でもあり、そこには、余人には決して足を踏み入れることのできない領域がある。

 シングルマザーである「私」は、やがて、もう一つの無垢な存在である息子「ルート」を介して「博士」とより親密になり、その世界をさらに強く感じてゆく。少年の無垢さはもっとも身近で明確な手触りのある無垢さである。周到に外界から隔絶された場所で、三人だけの幸せな時間が「静かに」流れてゆく。しかしそれはとても危ういものでもある。物語は読者に、その世界がやがて破綻するだろうという予感を抱かせ、果たしていくつかの小さな波乱が訪れる。

 しかしこの物語は、彼らがその波乱をどう乗り越え、いかにして幸福な世界を取り戻したかという話ではない。「私」やルートは、それらの波乱を経験してはじめて、その居心地の良い世界に安穏とするのでなく、それと真摯に向き合い、それぞれのやり方で、確かな足取りで、自らそこに踏み入ってゆこうとする。それは、「私」が永く失っていたものに気付き、「博士」の純粋無垢な世界をはっきりと感じ取り、それと現実とを繋いでゆく過程でもある。

 登場人物がそれぞれ思いやり豊かに描かれ、一方で、主人公が心に抱えていた喪失感や彼女が「博士」に寄せる愛情は、さらりと描かれていて臭みがない。過剰な説明もなく、物語は終始淡々と綴られ、それだけに、そこに提示された美しさが深く静かに心に染み込んでくる。美しく、そして印象深い、おとぎ話のような作品である。

 ところで評者には、この作品の「博士」に、実在のハンガリーの数学者ポール・エルデシュの面影が感じられてならない。エルデシュは文字どおり人生のすべてを数学に捧げ、驚異的な業績を残した数学者だが、何よりその人柄によって多くの人に愛され、この世を去った今もなお多くの数学者に慕われている人物である。「博士」の言動の多くは、評者にはまるでエルデシュのそれのようにさえ感じられる。

 エルデシュの生涯を綴った好著『放浪の天才数学者エルデシュ』はこの作品の参考文献にも挙げられている。本作に登場する数学に関するエピソードも、多くこの本にヒントを得ていると思われる。いや、もっと有り体に言えば、この作品そのものがエルデシュへの一つのオマージュではないかとさえ思える。興味を持たれた方はあわせて読んでみてはいかがだろう。数学の問題についてはもうちょっと突っ込んだ解説がなされているが、あくまで一般向けに書かれたもので、訳文もなめらかで読みやすい。

博士の愛した数式博士の愛した数式
小川洋子

文庫本, 新潮社, 2005/11/26

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