2005年07月27日

私家版『百物語』考 [雑記帖]

 先日、京極夏彦の『巷説百物語』、『続巷説百物語』を取り上げた段で、佐吉はミステリーの楽しみ方が今一つよくわからないと書いた。が、一方で、この作品を読み物として面白いと感じ、これを読めば、あるいはミステリーの面白さがわかるかもしれないと思ったとも書いた。実は、『巷説百物語』の中で、こうした作品をファンの方たちがどう受け止めているのかを窺わせる一節に出会ったのである。それは『芝右衛門狸』という作品の一節で、藩の国家老が、領内の村に自分は人間に化けた狸だという者が現れ、民百姓が仕事もそっちのけでそれを見物していると聞き及ぶ場面である。以下、それを引用してみる。
 その怪しげな噂は、淡路国支配にして、洲本城城代、稲田九郎兵衛の耳にまで届いた。

 この稲田という家老、堅物ではあったがその裏で、その手の与太話には目のない男でもあったようである。何しろ諸国の珍談奇談を記した書物は大抵読んでいるらしい。

 しかし勘兵衛が思うに、稲田はただ不思議好きで済まされるような簡単な男ではない。

 それは慧眼であった。この稲田、不思議自体より、その不思議が真実か贋物かを見極めることが好きだという、些か捻くれた愛好の仕方を示す、少少困ったご仁だったのである。

 墓場の鬼火は人骨に含まれる燐が沁み出し燃えるのである―だとか、人魂は大気の陰気と陽気がぶつかる弱き雷なのである―だとか、どんなものにも悉く理屈をつける。

 屁理屈でも何でも好いから、取り敢えず捏ねてみる男なのだ。
 そうしたものは、その気になれば大抵は説明出来てしまうものであるから、幽霊凡て枯れ尾花、世に不思議なし―ということになる。

 稲田という男は、のべつその調子なのだった。兎に角小理屈を言う。素直に受け取らない。

 <中略>

 しかし。それは一方で、人知を越えた、理屈の通じぬ神秘を、強く求める気持ちの裏返しでもあっただろう。

 どんな理屈も太刀打ち出来ぬ摩訶不思議がこの世のどこかにはあって、それがいずれ眼前に立ち現れてくれることを、稲田はきっと心の何処かで願っているのに違いない。だから不思議な話に目がないのである。
 京極夏彦ファンの方たちの心情を見事に代弁した件ではないだろうか。そのやや自嘲的な語り口には、ファンの方なら思わず口元が緩んでしまうかもしれない。佐吉もなるほどと思った。そして、これは独り京極夏彦ファンに限った話ではないだろうとも思った。

 今でも怪談奇談の類はいくらでもある。心霊現象とか都市伝説とか呼ばれる類の話だ。もちろん、それを安易に鵜呑みにする人は多くはないだろう。まず大抵の人は、何らかの自然現象、錯覚や勘違い、あるいは単なる作り話として、合理的にそれを解釈しようとするはずだ。また、実際にその多くは、何かしら自然の理に適った形で説明し得るものなのだろう。

 だが一方で、そういった心霊現象を盲目的に信じる人たちも確実にいる。そして、そういった人たちにも、彼らなりのそうした存在の理解の仕方がある。やれ自縛霊だとか、やれ浮遊霊だとか、これこれこういう恨みがあって霊が成仏できずにいるとかなんとか……。そこには彼らなりの立派な(?)因果律が存在するのである。もちろん、いずれも胡散臭い理屈だ。そういった屁理屈をこじつけ都合良く理解してしまおうとするより、上に引用した京極の示す見方の方が、そうした謎や怪異に対して、延いては自分の存在する世界に対して、より真摯であると佐吉も思う。

 とは言え、上に挙げた、心霊現象の盲目的な信奉者たちでさえ、彼らなりに合理的に理解しようとしているという点はとても興味深い。考えてみれば、我々の知る怪談とは、大抵誰もが納得のいくストーリーのあるものだった。恨みを抱いた死んだ者がそれを晴らしたり、悪行を働いた者がその報いを受けたり、といった因果応報が描かれたものだった。妖怪、化物の類にさえ、きちんとした行動原理があった。我々の多くは、怪談をそういうものとして捉えているのではないかと思う。

 しかし、怪談とはそもそもそういうものだったのだろうか? 古来、日本の物語には物の怪やあやかしの類が多く登場する。が、それらは必ずしも、何かの恨みを晴らすとか、悪行を働いた者を懲らしめるとかいうものばかりではなかったように思う。何の謂れもなく人々に災いをもたらすものがいるかと思えば、ただそこにいるだけで、放っておけばどうということはないというものもいる。それは、かつての日本人にとって、不可思議ではあるがそこにいて当たり前、ちょっと変わった隣人のようなものだったのではないか、と佐吉は思っている。さすがに当時の人々とて、そうした話を丸ごと鵜呑みにしていたわけではないだろうが、少なくとも彼らは、そこに何らかの合理的な説明をつけなければ気がすまない、ということではなかったのではないか、と。

 実は、佐吉は上の2冊の京極作品を読みながら、しばしば杉浦日向子の『百物語』を思い浮かべていた。同じ『百物語』でありながら、両者の描いている世界は実に対照的なのである。

 百物語とは元々、『締め切った部屋に複数の出席者が集まって車座になり、百本の蝋燭を灯して順に怪談を語り、一話を語り終わるごとに一本の蝋燭を吹き消していき、百本目の蝋燭が消される(百話の怪談が語られる)と、実際に怪異が起こるとされる(Wikipedia 日本語版より)』というものだが、杉浦日向子の『百物語』は我々の知るいわゆる怪談とは大分趣きが異なる。彼女の『百物語』は、読者を怖がらせようというものでなく、まさに江戸時代の人々の感覚で、当たり前にそこに存在している怪異を描いたものである。

 この作品について、ネット上で様々な方の書かれたレビューを読んでみたところ、やはり多くの方が、そうした我々が知るところの怪談との違いに言及していた。それは同時に、怪談とは読者を怖がらせるものであり、なおかつ、そこにはきちんと納得のいく因果関係が描かれているものだという認識が、それだけ根強いということの証左でもあろう。

 杉浦日向子の『百物語』のオリジナル版(全3巻)は、昭和63年から平成5年にかけて刊行されている。佐吉は、不思議とその世界をすんなり受け容れることができたのを覚えている。佐吉にはどこか、昔は本当にそういうことがあったのだと思っているところがある。幼い頃、佐吉は、灯りを消した部屋の隅の暗闇には、異形のものが棲んでいると思っていたのである。その所為か、大人になり、そうしたものたちもすっかり見かけなくなった今、物の怪やあやかしが当たり前に存在していたかの時代を、うらやましく思うことがある。佐吉がミステリーの楽しみ方が今一つわからないと感じるのは、佐吉のそうした性向によるものではないかと、蒸し暑い夏の夜に、佐吉は考えてみたりもするのである。

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