![]() | 百物語 杉浦日向子 文庫本, 新潮社, 1995/11 |
古より百物語と言う事の侍る百物語とは、皆さんもご存知だろう、伝統的な怪談会の形式の一つである。夜、数人が一部屋に集い、百本の蝋燭または灯芯を灯して順に怪談を語る。一話語るごとに一灯を消してゆき、百灯目が消されたとき、実際に妖怪が現れるとされる。そのため、九十九話でやめておくのが習いとなっている。この作品はその百物語に倣い、江戸の世の九十九の怪異を漫画で描いた奇譚集である。
不思議なる物語の百話集う処
必ずばけもの現われ出ずると―
我々の知る怪談とは、一般に、読む者聴く者を怖がらせる一種の娯楽として編まれてきたものだった。そしてその多くは、恨みを残して死んだ者が霊となってその恨みを晴らしたり、不遜な行いをした者が祟りに遭ったりといった、因果応報を描いたものだった。しかしこの作品は、そうした怪談話とはだいぶ趣きが異なっている。何の謂れもなく人びとに災いを為す物の怪がいるかと思えば、ただそこにいるというだけで、放っておけばどうということのないあやかしもいる。そこには必ずしも明白な因果関係があるわけでなく、また我々に理解可能な行動原理があるわけでもない。
だから、この作品がいわゆる怪談として怖いか怖くないかと問うことは、およそ意味を成さないだろう。これを因果因縁の物語として読み解こうとしても仕方がないし、もちろんそれらを、自然の理に沿って現象として理解しようとすることにも意味がない。この作品は、江戸の世の人びとにとって、怪異とはどのようなものであったかを、まさに当時の人びとの感覚で描いたものなのである。
我々は我々の理解を超えた存在に畏怖の念を抱く。だから、それを合理的に理解しようとする。そしてそれでもなお理解できないときに、人は恐怖を感じる。しかしこの物語に登場する人びとは、必ずしもそうではない。さすがに彼らとて、こうした怪異譚を丸ごと鵜呑みにしていたわけではないだろうが、だからと云って、そこに何らかの説明をつけなければ気がすまないというものでもない。彼らは、理解できなければできないなりに、それらと上手く付き合っていこうとするのである。彼らにとって、あの世とこの世とは地続きであり、現世(うつしよ)と幽世(かくりよ)とは分かちがたく繋がっている。彼らがそうした怪異を、延いては自分たちの住む世界をどう捉えていたかを、杉浦はまさに彼らの目線で描き出す。そしてそれを読む我々も、いつしか目の前の現実と幻想との境界が揺らぎ始めていることに気付く。この作品に「怖さ」を見出し得るとすれば、それはきっとこの点においてだろう。
それぞれの物語は、とあるご隠居を訪ねた人たちが、その慰みにと語ったものという設定になっていて、その語り手の違いを示すかのように、それぞれの話がさまざまな筆致で描かれている。が、そこにホラー漫画のようなおどろおどろしいタッチはほとんど見られず、むしろほのぼのとした絵柄が多い。しかしそれだけに、現実と幻想とが切れ目なく混じり合い、不気味である。
杉浦日向子は、漫画で、あるいは文章で、そうした江戸の人びとの世界観を活き活きと今に伝え、あまつさえ自らそれを体現した稀有な存在だった。しかし今振り返ってみるに、何よりその人柄こそが、彼女が多くの人びとに愛された最大の理由だったと思う。一ファンとして、あらためて彼女のご冥福を祈る。
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素晴らしい書評ですね!書評とはこうあるべきだと感動いたしました。
とはいうものの、私には書く能力がありませんが。(苦笑)
私の駄文では、非常に恥ずかしいのですが、お返しさせていただきます。
上の書評、とても拙い文章で、こうしてお褒めいただくと面映いばかりですが、佐吉なりに日向子さんのへの哀悼の意を込めてアップしたものです。
先日の訃報はとてもショックでした。本当に惜しい方を亡くしました。せめてご冥福をお祈りしたいと思います。
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