2005年08月18日

読書感想文? 読書感想文はここにはないよぉ [雑記帖]

僕が批評家になったわけ僕が批評家になったわけ
加藤典洋

単行本, 岩波書店, 2005/05/21

 アクセス解析を眺めていると、「読書感想文」あるいは「作品名 + 読書感想文」で検索してくるケースが目立つ。それも、このところ急激に増えている (サイドバーで『読書感想文トラックバック広場』というサイトにリンクが貼ってあるので、ウチのブログのすべてのページがこれに引っ掛かるのだ)。大方、夏休み中の中学生や高校生が、ネットで探した感想文を参考に、あるいはそれを丸写しして、宿題の読書感想文を体よく仕上げてしまおうという腹なのだろう。ったく、近頃のガキどもときたら…… (-_-メ

 と考えたところでふと思い至った。よくよく考えてみれば、佐吉自身、夏休みの宿題といえば、終わり間際になって大慌てで友人たち (特に真面目にやっていそうな女の子たち) に写させてもらうのが常だった。しかし、読書感想文ばかりは友達のを丸写しというわけにはいかない。さすがに同じ感想文が二つあれば、どんなに間抜けな教師だってそれと気付くだろう。だが、ネット上にある感想文のパクリなら、上手くやればバレないかもしれない。もちろん、当時、インターネットなどという便利な代物はなかったが、あればきっと佐吉も彼らと同じことをしていたに違いない。前言撤回。生徒諸君、夏休みの宿題、ご苦労さん。こんなサイトでも何かの役に立つことがあれば、大いに活用してくれ給へ。あっはっは……。

 とは言うものの、佐吉の書くレビューは、そういう目的にはあまり役に立たないんじゃないかと思う。何せ佐吉は、自己紹介にも書いているとおり、子供の頃、読書感想文が大の苦手だったのだ。

 当時を思い出してみるに、学校で書かされる読書感想文には、それに求められるスタイルのようなものがあった。なんていうか、読書自体を一つの体験と捉え、それを自分の具体的、直接的体験と照らし合わせ、その結果、自分の認識にこれこれこういう変化が現れましたという、ちょっと大げさに言えば自己変革の物語として書くことを理想としているようなところがあった。少なくとも佐吉はそう思っている。佐吉はこれが苦手だった。佐吉にとってそれは、嘘八百を書けと云っているに等しかった。夏休みの宿題で何が嫌と言って、読書感想文くらい嫌なものはなかった。だから、そんな奴が書いている、このブログのそれぞれのレビューは、およそ学校の宿題にはそぐわないんじゃないか、と佐吉は思うのだ。

 そもそも佐吉は、このブログのそれぞれのレビューを、感想文ではなく書評として書いているつもりである。もちろん、どれも書評と呼ぶにはあまりにも下手クソなものだが、それでも決して感想文ではないつもりだし、ましてや、そこから身辺雑記や随想などに発展させ、「自分語り」をしようなどと考えたことは一度もない。

 もっとも、そんなふうに言うと、「では、書評と感想文とはどう違うのだ」と問う人があるかもしれない。佐吉自身、それは上手く説明できないし、ここと同じように読書をテーマにした他のブログにも、書評と感想文とを特に区別していないところが多い。が、先日、その辺りの違いについて、なるほどと思う文章に出くわした。それは先の記事でも触れた加藤典洋の『僕が批評家になったわけ』の中にあった。加藤は『文学批評の歴史』というくだりで、「文学でいう批評とはどういうものか」という問いかけ、それに対する答えとして、批評家篠田一士の言葉を引用している。ここに孫引きしてみる。
批評の歴史は文学とともに古い。すぐれた文学作品を読んで感動したひとは、必ずその感動を表現しようと欲する。ここに批評の根源がある。
 加藤はこの批評の定義に賛成であると言い、さらに引用する。
感動を表現するためには、まずそれがどうして生じたのかということを明らかにしなければならない。当面の作品のなかにどのような仕組みが行われているかということをまず調べることが必要になるであろうし、また、その仕組みに反応する読者自身の心の内面のありようがどうなっているかということも調べなければならないのである。
 それに関する加藤のコメントはこうだ。
話は少し専門的になる。しかし、文芸批評ということでいうなら、これも、こういうほかないということがいわれている。読む。面白い。なぜだろう。そう考えが進めば、この作品のどういうところが、なぜ面白かったのか、と作品のほうに目がいく。他方、それをどんなふうに自分は面白かったのだろう、自分の受けとった感動ってどんな感じだったんだろう、と受けとるなら、関心は今度は自分の感動のほうに向かう。感動の原因と結果。感動というものが手で触れられないものだから、そのブラックボックスに空いた穴に、原因と結果、入口と出口の両方から、手を突っ込んでみるのだ。
 佐吉なりに解釈するなら、読書感想文であれば、ここで云う結果、つまり、自分がどう感じたかだけを書けばよく、学校の宿題としての読書感想文には、そこからさらに自分の随想や告白に発展することが求められる。したがって、それは書評即ち批評ではなく、それとは別の何かである。ついでに言えば、感想文なら、本来、そこに何を書いても構わないわけだが、学校の宿題としての感想文には、模範解答、いや、ある種の「正解」があるものである。

 上に言ったとおり、佐吉はレビューの中で「自分語り」をしたくない。だから、自分がどう感じたかより、その作品がなぜそう感じさせたのかに重きを置く。上の引用に従えば、書評としてはそれだけでは不充分で、佐吉自身の内面にも触れる必要があるということになるのだが、阿呆な佐吉は、そんなことをすれば、ついつい自分語りに陥ってしまう。だから強いてそうするのである。自分について語りたいときには、この記事のように、レビューとは明確に区別して書く。

 ところで、佐吉が初めて書いたレビューは、沢木耕太郎の『世界は「使われなかった人生」であふれてる』という映画評集のそれである。実は、佐吉がブックレビューを書こうと思うきっかけになったのも、この本なのである。この本のあとがきで沢木はこう云っている。
 この「映画評」が批評でないのは無論のこと、もしかしたら感想文ですらないのかもしれない。私にとってこの一連の文章を書く作業は、心地よい眠りのあとで楽しかった夢を反芻するようなものだった。

 私は、その夢がどのように楽しかったかを説明する前に、まずその夢がどのようなものだったかを説明したかった。いや、その夢がどのようなものだったかを上手に説明することができれば、それが楽しさを説明することになると思っていたところもある。

 ともあれ、大事なことはその「夢」の面白さが読み手にうまく伝わることである。読んだあとで、これはぜひ自分でも見てみたいと思うようなものが一つでも二つでもあれば嬉しいのだが。
 沢木は謙遜してこう云っているが、『世界は「使われなかった人生」であふれてる』は、彼でなければ書けなかったであろう、素晴らしい映画評であり、必ずしもそこで取り上げられている映画を知らなくても、それぞれの映画評自体が読み物として充分面白い。佐吉は、ブックレビューを書くにあたっては、このスタイルを一つの理想としている。何より大事なのは、それが何なのかを伝えること。そして、沢木の云うように、そのことを上手く伝えることができれば、それがなぜ面白かったのかも自ずと伝わるだろうし、さらには、それを自分がどう面白いと感じたかも伝わるはずだ。そうすれば、上で云った自分の内面に触れていないという欠陥も補われることになるだろう。佐吉はそう思いながらレビューを書いている。

 もちろん、現実は理想にはほど遠く、佐吉の書くレビューは、それがどういうものなのかすら上手く伝えられていないことが多い。しかし、それでも理想はきちんとイメージしておきたいと思う。たとえわずかでもそれに近づくためには、そうすることが必要なのだ。佐吉が今、こんな長ったらしい文章を書いているのも、結局は、そのことをあらためて確認するための作業に他ならない。

 そんなわけだから、佐吉のブログは、夏休みの宿題の読書感想文にはおよそ役に立たないだろう。他のもっと役に立つサイトが見つかることを、陰ながら祈っているよ、生徒諸君!

 ……って、そんな連中がこんなとこまで読んじゃいねえだろうけどさ (-。- y-°°°

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