2008年02月04日

家守綺譚 / 梨木香歩 [書評]

家守綺譚家守綺譚
梨木香歩

単行本, 新潮社, 2004/01

 「文明の進歩とやらに今ひとつ棹さしかねてる」駆け出しの物書き綿貫征四郎は、若くして亡くなった学友高堂の実家に、ひとり家守として起臥している。時代はおよそ百年前の明治の末、場所は登場する地名から京都周辺と察せられるが、いずれもはっきりとは示されていない。

 とある嵐の晩、征四郎が布団を引っかぶって寝ようとすると、床の間の掛け軸から何やら音が聞こえてくる。
 布団から頭だけそろりと出して、床の間を見ると、掛け軸の中のサギが慌てて脇へ逃げ出す様子、いつの間にか掛け軸の中の風景は雨、その向こうからボートが一艘近づいてくる。漕ぎ手はまだ若い……高堂であった。近づいてきた。
 ――どうした高堂。
 私は思わず声をかけた。
 ――逝ってしまったのではなかったのか。
 ――なに、雨に紛れて漕いできたのだ。
 高堂は、こともなげに云う。
 のみならず高堂は、征四郎に「庭のサルスベリの木がおまえに懸想している」と告げ、征四郎は征四郎で、その言葉に「実は思い当たるところがある」と得心する。そうして「家守」征四郎の「綺譚」は始まる。河童、仔竜、人魚、小鬼、桜鬼……。さまざまな怪異が、まるで季節の風物がごとく、征四郎の周辺に現れては消えてゆく。

 この作品は、そうした云わば怪異を描いているからこそ「綺譚」なのだが、だからといって、不思議でしょう? 怖いでしょう? 奇想天外でしょう? というのではない。はたまたそうした怪異が当たり前の、独自の空想の世界を創出しているのでもない。物語は、主人公の身辺雑記か日記のように淡々と語られ、そこに自然のスピリット(気、魂、精霊)とでもいうべきそれらの怪異が、なんの気負いも衒いもなく、それこそ日常茶飯事のように描かれている。四季折々の風景の細やかな描写とともに、端正な筆致で綴られるそれらの怪異譚に浸っていると、実際にそんなことがあっても不思議ではない気がしてくる。

 物語の舞台は、今でもその名残が残っているんじゃないか、と思えるくらいのちょっと昔。ただし、現代のさまざまな喧騒とは無縁に、時間がゆったりと流れていて、人がもっと自然に近い場所で暮らしていた時代である。だから読者は、昔はきっと夜になるとこの辺りは真っ暗だったんだろう、夏にはこの川で泳ぐこともできたんだろう、この近くにも狐や狸が棲んでいたかもしれない、というのと同じ感覚で、河童はこんな具合に暮らしていたのか、狐や狸が人を化かしたりもしたのか、なるほど桜の散り際には桜鬼が暇乞いに現れたのか、と納得できてしまう。時代や場所が明言されていないだけに、そうした世界がことさら近しく感じられる。かつては自然の気がそんなふうに感じられ、人はそんなふうに自然と交流していたのだということが、すとんと腑に落ちるのである。

 征四郎や高堂だけでなく、隣家のおかみさんや近くの山寺の和尚など、脇を固める役者たちがまたいい。たとえば隣のおかみさんは、庭で布のようなものを拾った征四郎が、これは何かと尋ねると、
 ――河童の抜け殻に決まってます。
と「自信満々に」断定し、また土手で小鬼を見たと云えば、
 ――今日はもう啓蟄ですから。
と、こともなげに応える。本当にそんなことがあったのかもしれない、と思わせる所以である。

 それにしても、この物語世界の居心地の良さはどうだろう。人が天地自然のスピリットとおおらかに交歓し、しかもそれがちっとも特別なことではなかった時代。もちろん評者はこの物語に描かれているような時代や場所に暮らした経験はないが、なのになぜか懐かしいと感じてしまう。あるいはそれは、多くの日本人の記憶にある、ひとつの原風景とも云うべき心象風景なのかもしれない。

 明治期の小説を思わせる小気味好い文章、居心地の良い物語世界、そして何より、そこに描かれた人と自然との交流ののびやかさ。『家守綺譚』は、どれをとっても上質な、まさに読書らしい読書が愉しめる一冊である。煩瑣な日常を忘れさせ、しばしの至福の時間を与えてくれる、愛着を持たずにはいられない一冊である。

家守綺譚家守綺譚
梨木香歩

文庫本, 新潮社, 2006/09


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