2008年02月21日

煙る鯨影 / 駒村吉重 [書評]

煙る鯨影煙る鯨影
駒村吉重

単行本, 小学館, 2008/01/31

 日本には今も現役の商業捕鯨船が存在する。

 と云うと、あるいは意外に思われる方もいらっしゃるかもしれない。国際捕鯨委員会(IWC)における「商業捕鯨の一時停止」措置の決定を受け、日本では現在、調査捕鯨のみが行われていて、商業捕鯨はまったく行われていない、と、きっと多くの方が思われているに違いない。評者もこの本に出会うまではそう思っていた。

 しかし実際には、IWCが保護の対象としているのは、83種の鯨類のうち、シロナガス鯨、セミ鯨、イワシ鯨などの髭鯨を中心とする13の大型種であって、それ以外の鯨類については、今もなお商業捕鯨が可能なのである。

 とは云え、需要と供給のバランスから云えば、大型鯨類の捕獲禁止は、事実上、商業捕鯨の全面禁止に等しい。水産庁の管理のもと、現在日本で5艘のみが操業している小型捕鯨船が獲っているのは、肉に独特の臭みがあるため、国内でも一部の地域でしか需要のない、ゴンドウ鯨、ツチ鯨といった小型の歯鯨である。しかもそのわずかな需要さえ、近年、徐々に減りつつあり、ただでさえ逼迫している日本の商業捕鯨を取り巻く環境は、出口の見えないトンネルの中にいるようである。本書は、そうした厳しい状況の中、それでもなお鯨を追い続ける海の男たちを追った、著者渾身のドキュメンタリーである。

 日本における古式捕鯨発祥の地であり、かつては捕鯨や鯨肉加工で活況を呈した和歌山県太地町は、水産業が衰退した今も、くじら博物館をはじめ、多くの古式捕鯨時代の施設を整備して観光に力を入れるなど、捕鯨の文化と伝統を継承する「くじらの町」である。著者の駒村吉重は、その太地港を拠点とする第7勝丸に同船し、現代の鯨捕りたちが、太地沖でゴンドウ鯨を追い、房総和田沖や網走沖でツチ鯨を追う様子を、克明に真摯に伝えてゆく。

 日本の捕鯨史を振り返ったプロローグと、取材までの経緯を綴った第1章では、いささか気負いすぎの感のある修辞を凝らした文体にやや閉口させられるが、捕鯨の現場を追いはじめる第2章からは、一転、臨場感あふれるテンポの良い文章で、ぐいぐいページを繰らせる。なかなか鯨に巡り会えないときの焦燥感と無力感、鯨を発見したときの緊迫感と、ようやく追い詰めた鯨に銛を放つときの緊張感、そして海と陸とを行き来して暮らす男たちの生活感が、乗組員それぞれの人物像とともに、行間からあふれんばかりに伝わってくる。

 ときに、いかに零細な商業捕鯨と云えども、一連の国際捕鯨問題と決して無縁ではあり得ない。本書においても、IWCにおける捕鯨問題の変遷と、それに絡んだ日本の近代捕鯨の歩みの説明に、ほぼ1章が割かれている。けれど駒村は、本書において、捕鯨について賛成の立場も反対の立場もとっていない。

 この作品は第14回小学館ノンフィクション大賞を受賞している。だがその選考過程において、「捕鯨問題に対する態度を明確にしていない」という指摘があったことも、本書のあとがきで明かされている。しかし駒村によれば、現在のIWCにおいては、捕鯨国、反捕鯨国双方の主張は、相容れるところのない水掛け論であり、どちらも、なにがしかの利害関係のある他の国々を巻き込んでの、不毛な多数派工作に終始しているというのが実情だそうで、だとすれば、ここで声高に捕鯨賛否論を訴えることに、さほどの意味があるとは思えない。

 実際、そうした問題を、他の誰よりも深刻な死活問題として受け止めているであろう鯨捕りの男たちにしても、ひとたび海に出てしまえば、そんな抽象的な議論に関わっている暇などないだろう。彼らが見据えているのは、洋上に不意に現れる鯨の影だけなのである。『煙る鯨影』は、そんな鯨捕りたちの姿を、ことさら美化するでもなく、また哀れむでもなく、ただありのままに伝えた記録文学なのである。

 日本の捕鯨賛成派がしばしば口にする意見のひとつに、捕鯨は日本の文化だという云い方がある。本書は、鯨捕りの男たちだけでなく、その捕鯨船の母港や寄港地で、ずっと鯨と関わってきた人々の暮らしぶりをもあるがままに描き、今の日本における捕鯨文化がどのようなものであるかを、観念論としてでなく、あくまで現実のものとして活写している。そしてそこにこそ、本書の存在意義がある。第7勝丸は、今も鯨影を追って海原を駆けており、太地や和田の人々は、鯨の陸揚げを心待ちにしている。

関連(するかもしれない)書籍

この記事へのコメント


コメントを書く
お名前: [必須]

メールアドレス:

ホームページURL:

コメント: [必須]



この記事へのトラックバック


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。