2005年10月26日

雷電本紀 / 飯嶋和一 [読書日記]

雷電本紀雷電本紀
飯嶋和一

文庫本, 小学館, 2005/06/07

 飯嶋和一『雷電本紀』を読み終える。日記をめくってみると、読み始めたのが12日だから、10日以上かかった計算になる。最近はTVで野球を見たりゲームをしたりで、休日にもほとんど本を読んでなかったからなあ……。

 まあ、それはさておき、この作品、帯には『飯嶋和一を知らない人生なんて……』、裏表紙には『傑作揃いの飯嶋和一の歴史小説の中でも……』と仰々しい宣伝文句が並んでいる。が、読み終えての佐吉の率直な感想は、それほどでもなかったかなあ……なのである。

 物語は、実在する稀代の名力士雷電為右衛門の生涯を、彼と同年代の鉄物問屋鍵屋助五郎との交友を交えながら描いたもの。人々が災厄や圧政に苦しんでいた天明の時代、彗星の如く現れた雷電は、並外れた体躯と野獣のような闘志によって一時代を築き、それまでは八百長が横行するほど腐敗していた相撲そのものさえ変えた。しかし、土俵を降りた雷電は少しも居丈高になることなく、知性・教養ともに秀で、内省的な穏やかな性格の持ち主で、ひたすら貧しい人々のために尽くすことに心を砕いた。そんな雷電の闘う姿に人々は勇気づけられた。雷電は貧しい人々の希望の星だった。

 作品は、足掛け6年の歳月をかけ、綿密な調査に基いて書かれたものだという。時代考証も正確らしい。けれど読み終えて、大作を読んだという充実感が湧いてこない。それはなぜなのか、佐吉はあれこれ考えてみた。

 この作品には「良い人」しか登場しない。雷電、助五郎はもちろんだが、雷電の力士仲間、郷里の人々、助五郎の店の人々、皆、何よりも他人の幸せを願い、自らを喜んで犠牲にする、まるで絵に描いたような「良い人」なのである。また一方で、作中何度か『雷電は対戦相手の背後にもっと大きな存在を見据えていた』という云い方がなされるが、その敵 (つまりは災厄、あるいは圧政、そしてその元凶となる官僚や役人たち) についてはほとんど描かれておらず、その存在がどうにもリアルに感じられない。それゆえ、ここに描かれた雷電の闘い続けた生涯がさほどドラマチックなものに思えない。また、文章はお世辞にも洗練されているとは云い難い。荒く、雑な印象さえ受ける。三人称でありながら、しばしば語り手が感想を挟むのにも、ちょっと戸惑わされる。

 巻末には、お約束の解説ではなく、著者の結構長いインタビューが載せられている。それを読むと、飯嶋は、時代小説らしい云い回しをひどく嫌い、神の目線で描く三人称を使うことにもだいぶ抵抗があったという。また、いかにもという時代小説の結構に収まってしまうことを良しとしなかったこともうかがえる。つまり、上に云った佐吉がこの作品に感じた難点は、すべて飯嶋が意図したものだったということになるのである。

 ここで佐吉ははたと困った。仮に飯嶋がいわゆる歴史小説らしい小説を書こうとしてこの作品を上梓したのであれば、上のように単にコキおろして終わりである。しかし、これが意図したものだということは、飯嶋が提示したのはステレオタイプの時代小説とは別の何かだということになる。となれば、「痛快な時代小説を期待していたのに、その期待が裏切られました」では評になるまい。

 著者自身の素の言葉を受けて作品の評価を変えるというのもあまり潔い話ではないが、少なくともそういう視点、つまり時代小説としての物語世界のリアリティ云々は、この作品にとってさほど重要なことではないらしい、と佐吉は思い直した。ならば『雷電本紀』とはいったい何だったのか。今日はまったく趣向の違う山田詠美の『PAY DAY!!!』を読みながら、そんなことをぼんやり考えている佐吉なのである。

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