2008年03月20日

翻訳家の仕事 / 岩波書店編集部編 [書評]

翻訳家の仕事翻訳家の仕事
岩波書店編集部編

新書, 岩波書店, 2006/12

 翻訳とは、考えれば考えるほどわけのわからない行為である。ある言語で書かれたことがらを、完全に他の言語に置き換えることは原理的にできない。なのに翻訳家たちは、そんなことは百も承知で、原著と限りなく等価に近い相似物を創ろうと、訳語一つに呻吟する。いったい翻訳の何が彼らを惹きつけるのか。そもそも翻訳とはどういうことなのか。単純に答えの出せる質問ではないだろうが、本書はそんなつかみどころのない設問に対し、いくつかの手がかりを与えてくれる。

 本書は、岩波書店の雑誌『図書』に連載された「だから翻訳はおもしろい」をまとめたエッセイ集である。現役の翻訳家37人が、翻訳の魅力や苦悩や愉悦をありのままに語っている。高尚な比較文化論を展開する人、自らの来し方を振り返る人、翻訳にまつわる軽妙なエピソードを紹介する人、語り口は十人十色である。

 もっとも、雑誌連載時のタイトルとは裏腹に、翻訳が楽しくて仕方がないという人はほとんどいない。多くの翻訳家が、むしろその作業の難しさやもどかしさ、苛立ちや焦りを口にする。

 しかし同時に、何人かが異口同音に語っているのは、原著から聞こえてくる声に耳を澄まし、聞き取ったその声を、それに最も相応しい言葉で再現し得たと感じたときの満足感である。訳文を作る段においては、翻訳者は限りなく創作者に近い。むろんそこには産みの苦しみが伴うが、納得のいく訳文ができたときの達成感は他に例えようがない、と。

 また、人間は日常のさまざまな場面で「翻訳」を行っていると語る人もいる。異言語間の翻訳に限らず、古典を現代語に訳したり、方言を標準語に云い換えたり、人の気持ちを読み取ったり、不可解な出来事の意味を考えたり、と、およそ「解釈」や「理解」と「表現」とに関わることがらは、なべて一種の「翻訳」だと云うことができる。あるいはこうして書評を書くという行為にも、それはあてはまるかもしれない。そのように自分に身近なものごとから演繹してみると、彼らの云う難しさやおもしろさが、うっすらとではあるがわかるような気がする。

 ともあれ、本書を通読し、彼らの言葉を総括してみても、「翻訳とは何なのか」が見えてくることはない。だいいちあまりにも多種多様で総括のしようがない。しかしそれらを通じて、翻訳作品というものが、単なる外国文学の置換に留まらない一種独特な魅力を湛えたものであることにあらためて気付く。

 いささか長い引用になるが、自身、翻訳文学を愛する者の一人として、全身がびりびりしびれた一節をぜひともここでご紹介したい。フランス文学翻訳家の野崎歓の言である。
 翻訳は必然的に不正確であり、正解は原著のみだろうと正論を吐く人もいる。まさにそのとおり。Call me Ishmael. 『白鯨』原作の冒頭の一句くらいは僕も知っている。意味は読んで字のごとし。だがこの短文が今までどれほど多様な日本語訳を生んできたことか。そのすべてを並べてみれば壮観だろう。二、三比べてみただけでも、各訳者が次々に鯨の泳ぐ海に飛び込んでいくような感じで、一人として同じフォームの者はいない。原文との同一性を求めながら、結果がばらばらとは何事か。しかしそれこそが翻訳のダイナミズムだと強弁したい。翻訳は運動であり、たえざる跳躍である。(中略)跳躍のスリルには他に代えがたいものがある。翻訳を読む愉しみもまた、そんな運動感覚につながっているはずだ。
 翻訳作品について、原著と読み比べたわけでもないのに、訳の良し悪しを云う人がいる。しかし、なめらかで読みやすい、いわゆる「こなれた」訳文が必ずしも名訳というわけではない。と云うより、およそ優れた翻訳とはどうしても「翻訳調」を帯びるものだ。それは異国の文学を捕まえようとする言葉による闘いの痕跡であり、異言語と格闘する日本語の雄姿なのである。優れた翻訳作品は、外国文学のみならず、躍動する日本語の逞しさをも読者に体験させてくれる。野崎の言葉は、そう教えてくれているように聞こえた。

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