2008年04月07日

納棺夫日記 増補改訂版 / 青木新門 [書評]

納棺夫日記 増補改訂版納棺夫日記 増補改訂版
青木新門
文庫本, 文藝春秋, 1996/07

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 本書は、富山県で葬儀社に勤め、遺体を拭き清め棺に納める仕事に就いていた著者が、その「納棺夫」としての日々と、それを通して思い巡らせた生と死についての哲学的論考を、澄明かつ力強い文章で綴った一冊である。本編は3つの章から成っており、もともと地方出版社から刊行されたものを文庫化した本書には、それに加えて「『納棺夫日記』を著して」という後日談が収められている。

 著者の青木新門はかつて、東京の大学を中退し、故郷の富山でスナックを経営するかたわら詩や小説を書いていた。その頃たまたま店に立ち寄った作家の吉村昭に見出され、彼が編集委員を務める同人誌に小説を発表し、評判を得たこともあった。しかし、ならばと色気を出して書いた2作目以降は惨憺たる出来で作家になる目処は立たず、やがて経営していたスナックも倒産する。借金に追われ、夫婦喧嘩が絶えなくなり、それでもなお原稿用紙に向かい続ける夫に、生まれたばかりの娘のドライミルクを買う金もないと、妻は新聞を投げつける。床に落ちたその新聞にあった求人広告が、著者が「納棺夫」となるきっかけだった。どんな仕事なのかもわからぬまま、青木はその求人に応募した。

 本編の第1章「みぞれの季節」には、世間から忌み嫌われる仕事に就いた著者の、困惑と葛藤の日々が綴られている。

 妻には「穢らわしい」と罵倒され、叔父には「一族の恥」と絶交を云い渡され、また、ひたすら金のために仕事をする僧侶や火葬場の職員を目にして、自身当惑しながら仕事を続けていた著者は、ある日、かつての恋人の父親を納棺することになる。当時何度も会ってくれと云われながら、結局会うことのなかった父親の遺体を湯灌する著者に、彼女は何も云わず、目に涙を溜めて、額の汗を拭き続けてくれた。その行為に自分のすべてが認められたと感じた彼は、人の死やそれに関わる職業をタブー視する社会通念が、誰より自分の中に根深く巣食っていたことに気づき、まず自分自身の考えを改めなければと、服装や礼儀にも気を配り、真摯な態度をもって「納棺夫に徹する」ようになる。そんな著者に、次第に、生と死がみぞれの中の雨と雪のように分かちがたいものであるという考えが芽生えてくる。

 第2章「人の死いろいろ」では、そうして死と真っ直ぐ向き合うことを決意した著者が、納棺の仕事を通じて経験した、さまざまな人の死の様相が描かれる。

 轢死体や縊死体の処理に呼ばれ、蛆の湧いた独居老人の遺体を納棺し、死の直前まで延命装置に囲まれぶよぶよになった死体に触れては現在の末期医療のあり方に思いを致す。そうして毎日死者と接するうち、著者は死者の安らかな表情に美しさを見いだすようになり、一方で生に執着し死を忌避する生者の視線を醜悪と感じるようになる。いくつもの俗信や迷信がないまぜになった葬送儀礼の矛盾に疑問を抱き、その背後に著者は、もっぱら生者の視点から死を解釈しようとする人間の我執を見て取る。

 そしてなにより圧巻なのが、第3章「ひかりといのち」である。

 癌で他界した作家の高見順が、あるいは『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』の井上和清医師が、死を受け入れた瞬間、この世のあらゆるものが光り輝いて見えたと記している。そして著者もまた、他者の死を見つめる日々の中で、そうした光の残映のような微光を感じるようになる。

 著者の感じた不思議な光をもっとも明快に解き明かしてくれたのは親鸞だった。親鸞の思想は、親鸞自身が体験した光現象に基づいた、きわめて実践的なものだったのである。著者はこの章において、その親鸞との出会いをとことん掘り下げてゆく。宮沢賢治や金子みすずの詩、分子生物学や量子物理学、宇宙論、そしてさまざまな仏教思想など、彼の広範な読書体験に裏打ちされた多様な知見を引き合いに出し、彼自身の生と死を見つめる眼差しを、深く、真摯に、ダイナミックに展開してゆく。生と死が限りなく近づいたときに起こるこの光現象を体験すると、人は生への執着や死への恐怖から解放され、この世のあらゆるものへの感謝の気持ちに包まれる。それは生と死という二分法を越えた視点から「生死」を感得することである、と。

 ただし「『納棺夫日記』を著して」によると、『納棺夫日記』について読者から寄せられた声は、おおまかに、とりわけ第3章に感銘を受けたというものと、第1章、第2章には感動したが、第3章はついていけなかったというものとに分かれたという。

 たしかに第3章は一読ですんなり理解できる内容ではない。難解というのではないが、著者が生と死を見つめていった経緯をありのままに綴ったこの章は、一つの結論に向かって理路整然と語るという性格の文章ではなく、加えて聞き慣れない仏教用語もしばしば登場する。評者もこの章を理解するには何度か読み返さなければならなかった。

 そもそもここで語られている光現象は、いみじくも著者本人が云っているように、あくまで実体験から感得するものであって、言葉で伝えられるものではない。この章が論理的に理解できたからといって、著者の云う光がどのようなものであるかが感じ取れるわけではない。彼自身そのことを承知のうえで、理屈ではなく感動によって彼の感じた光の残映なりとも伝えようとしたのが本書だと云うことができる。だから第1章、第2章から何かを感じ取るだけでも、本書を読む意味は充分にあるはずである。が、評者はやはり、本編第3章こそがもっとも深い洞察に満ちていると記しておきたい。わかりにくければ何度でも読み返せばいい。本書はそうするだけの価値のある一冊である。

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この記事へのコメント

96年に『納棺夫日記』を購入し、まだ読んでいませんでした。
佐吉さんの書評を読んでいま本を探してみました。とても気になっていたのでいつも見えるところに置いておいたのです。これから読んでみようと思います。
また、書評を書いていただくにはどうすればいいのですか。

Posted by REI at 2008年06月01日 01:13
REIさん、コメントありがとうございます。

『納棺夫日記』はとても印象深く、佐吉にとっても多くのことを考える考えるきっかけになった一冊でした。上にも書いたように、この本は著者が仕事を通して見聞きしたことや、「光現象」というある種の神秘体験をもとに綴られているわけですが、この本が優れているのは、そうした個人的体験をただ感じたままに差し出すのでなく、さまざまな視点から論考を加えることによって、その体験の普遍性をも探ろうとしていることにあるように思います。お読みになれば、きっと響くところがあるだろうと思います。

サイトを拝見しました。郷土の詩人の作品を広く伝えようという活動をされている由。日塔貞子という詩人については、寡聞にして存じ上げませんでしたが、サイトでいくつか作品を読ませていただきました。どこか懐かしいのどかな山村の風景が、目の前に鮮やかに立ち上がってきて、そこに喜びや哀しみがすっとにじんでゆく、そんなとても美しい詩だと感じました。

佐吉は普段、詩を読む機会などほとんどなく、ましてやそれについて何かを語ろうとすれば、どうにもとんちんかんなことを云ってしまいそうですが、日塔貞子という詩人の存在を知ったことは、とても幸運なことでした。あらためて、どうもありがとうございます。

Posted by 佐吉 at 2008年06月02日 21:07

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