2008年06月01日

変愛小説集 / 岸本佐知子編訳 [書評]

変愛小説集変愛小説集
岸本佐知子編訳

単行本, 講談社, 2008/05/08

 柴田元幸の最新エッセイ集『それは私です』に、『自動翻訳のあけぼの』と題した文章がある。翻訳ソフトが長足の進歩を遂げ、ついにはさまざまな翻訳者のスタイルを再現できるソフトが登場するという妄想を描いた、SFショートショート仕立ての文章なのだが、そのなかに思わず吹きだしそうになる一節がある。

 文中で、その画期的なソフトはユーザーから熱烈に歓迎され、驚異的な売り上げを記録する。しかしやがて、ある思いもよらない事件を引き起こす。
 昨年の夏、ディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』の岸本佐知子訳を「新・訳太郎 Ver 4」で作成し、そのプリントアウトをホテルのプールサイドでのんびり読んでいた四十三歳の男性が、突然、無数の機関車が走っている幻覚に襲われたのである。(中略)男性は病院に収容され、一時は生命すら危ぶまれたが、どうにか回復すると、「岸本訳ディケンズを読んでいるうちに胸が苦しくなって幻覚が見えた」と、翻訳と症状のつながりを異様に強調した。
 柴田の文章ではさらに、『「せめて鴻巣友季子訳にしていれば」といった翻訳ソフト評論家の間抜けなコメント』なども登場して、翻訳文学ファンの楽屋落ち的な笑いを誘う。しかしこれは、決して岸本の訳が奇妙奇天烈だということではない。この一節に妙なリアリティがあるのは、この人気翻訳家の訳書には、「小説とはこういうもの」という既成概念を覆すような、破天荒な作品ばかりが並んでいるからである。

 本書は、その岸本佐知子が選んだ、恋愛にまつわる現代英米文学のアンソロジーである。だが(もちろん)ただの恋愛小説集ではない。狂おしいまでの恋心を描いていながら、その対象は近所の家の庭の木だったり、妹のバービー人形だったり。不倫相手の男を丸呑みにし、体内で飼いならす人妻の話があるかと思えば、皮膚が次第に宇宙服に変わってゆき、最後には宇宙に飛び立ってしまうという奇病に冒された夫婦の話があったり。さらには自分の母親を「攻略」するためのハウツーものに、飛行船に連れ去られた恋人をどこまでも追い続ける男の冒険譚。本書はまさに、岸本ならではの奇想天外な「変愛」小説がぎっしり詰まった一冊なのである。

 実を云うと評者は、普段あまり恋愛小説を読まない。だがその貧しい読書経験を根拠に云えば、いわゆる恋愛小説においては、たとえそれがどのような愛の形を描いていようと、恋愛そのものについては大抵、美しいもの、強いもの、尊いものといった、絶対的な肯定が前提にあるように思う。たとえば禁断の愛や背徳の愛を描いていても、愛そのものは紛うかたなく美しい。少なくとも評者は、恋愛小説というものにどこかそんなイメージを抱いているところがある。

 ところが本書においては、そうした前提がまったくと云っていいほど成り立たない。なにしろ木に想いを寄せたり、人形にときめいたり、愛しさあまって相手を丸呑みにしたりする話なのである。これが「恋愛」とよべるのだろうか、と戸惑う読者がいても不思議ではない。

 けれど、そうして先入観から自由になれる所為か、これらの作品を読むと、恋愛小説の苦手な評者にも、登場人物たちの純粋で切実な思いが、不思議と生々しく伝わってくるのである。どれもがとびきり常軌を逸した設定なのに、なぜか心の奥深いところを揺らしてゆく。過剰に美化された恋愛があふれる世の中にあって、これらの奇妙な作品たちは、読者に恋愛という感情とニュートラルに向き合うことを可能にしてくれているのではないか、そんな気がする。

 本書で取り上げられた作家には、日本ではあまり馴染みのない名前が多い。邦訳がまだ一冊も刊行されていない作家も何人かいる。本書に収められたそれぞれの作品を読むと、いきおい彼らの他の作品も読んでみたくなる。もちろん辞書を片手に原書と格闘するという手もあるのだが、ここはやはりまた岸本訳で読んでみたい。そう思うのはきっと評者一人ではないだろう。仮にそうしたときに、目の前に無数の機関車の幻影が現れるのなら、いいだろう、望むところだ。

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