2005年03月06日

中二階 / ニコルソン・ベイカー [書評]

中二階中二階
ニコルソン・ベイカー / Nicholson Baker
岸本佐知子

単行本, 白水社, 1997/10

 きっと誰もがそうだろう。幼い頃、世界は神秘と謎に満ちていた。目に映るもの、手に触れるもののすべてが我々の想像力を刺激した。かつて子供だった我々は、それら一つひとつに無限の物語を思い描くことができた。ベイカーは、そんな好奇心に満ちた子供がそのまま大人になったような作家である。が、もちろんそれだけではない。それに加えて彼は、圧倒的なまでに緻密な観察眼と冷静な分析力、そして抜群のユーモアのセンスを持っている。

 昼休みにドラッグストアで靴ひもを買った一人のサラリーマンが、ビルの中二階にあるオフィスにエスカレーターで戻ってゆく。この作品においておよそストーリーと呼べるものはそれだけである。彼はその間、なぜ両方の靴ひもがほぼ同時に切れたのかと疑問を抱き、それをきっかけに、およそ瑣末な、ほとんどどうでもいいようなさまざまな物事に思いを巡らしてゆく。コーラから浮き上がってしまうストロー、ホチキスのデザインの変遷、牛乳パックのアイデアの素晴らしさ、トイレでの熱風乾燥機に対するペーパータオルの優位さ……。続きを読む
2005年03月05日

死んでいる / ジム・クレイス [書評]

死んでいる死んでいる
ジム・クレイス / Jim Crace
渡辺佐智江

単行本, 白水社, 2004/07

 訳者あとがきによれば、徹底した無神論者であるクレイスは、同じく無神論者の父の死に臨んで耐え難い虚無感を覚え、それを機に自らの無神論を見つめ直したという。この作品は彼のそうした経験をもとに書かれている。人は、宗教が示す死生観に頼ることなしに、死をどう受け入れたら良いのか、死にどういう救いを見出すことができるのか。クレイスはこの作品において、その問いに一つの答えを提示する。

 これといって魅力のない中年の動物学者夫婦が、人目につかない海岸で通り魔によって殺される。物語は、殺害の瞬間から二人のその日一日をさかのぼり、二人がその海岸で初めて出会ってからの三十年をさかのぼり、そうすることによって、唐突に終わってしまった二人の人生を浮かび上がらせる。一方で、家を飛び出し一人で暮らしていた彼らの娘は、行方不明になった両親を捜索し、その中で彼らの人生の名残に触れ、それを見つめ直す。そしてそれらと平行して、放置された二人の死体が腐敗してゆく様子が、冷徹に克明に描かれてゆく。続きを読む

その名にちなんで / ジュンパ・ラヒリ [書評]

その名にちなんでその名にちなんで
ジュンパ・ラヒリ / Jhumpa Lahiri
小川高義

単行本, 新潮社, 2004/07/31

 前作『停電の夜に』で、デビュー作とは思えないほど完成された作品世界を見せたジュンパ・ラヒリの初の長編小説。

 故国を離れ、アメリカに生活の基盤を築いたベンガル人夫婦の間に一人の男の子が生まれる。男の子は、かつて父の命を救ってくれた本の著者にちなみ、「ゴーゴリ」と名づけられる。成長するにつれゴーゴリは、アメリカに生まれ育ちながらベンガル人の伝統や習慣に従わなければならないことに反発を覚え、自分の意思とは無関係に親から受け継がされたものの象徴として、その奇妙な名前を嫌うようになる。

 そうして自らの出自を捨て去るようにアメリカ人風に改名したゴーゴリは、やがていくつかの恋愛を経験する。自分とは正反対の環境で育ったニューヨーク生まれの女性、自分とよく似た境遇にあるベンガル人の女性、そうした女性たちとの恋愛や結婚を通じて、また愛する人の突然の喪失を通して、ゴーゴリは自分が背負ったものへの反発と、それでもなお断ち切れぬ思いとの間で揺れ動く。そうした心の機微が細やかに綴られてゆく。続きを読む

停電の夜に / ジュンパ・ラヒリ [書評]

停電の夜に停電の夜に
ジュンパ・ラヒリ / Jhumpa Lahiri
小川高義

単行本, 新潮社, 2000/08

 ロンドン出身ニューヨーク在住のインド系の作家ジュンパ・ラヒリの処女短編集。ラヒリは、この作品でピュリツァー賞をはじめ様々な賞を受賞し、一躍脚光を浴びている。実際に読んでみると、そのことにも充分に納得がいく。デビュー作でありながら、すでに独自の作品世界が完成されている感さえあり、さらに、円熟の域に達しているかのような語りの巧さがある。

 もっとも、ラヒリの作品世界と云うとき、それは必ずしもインド系の人々を描いているということだけを意味するものではない。確かに、欧米とインドという二つの背景を持っていることは、ラヒリの文学世界を形作る重要な要素だろう。この作品においても、インド系の人びと、とりわけ異国に暮らす彼らのよるべなさが精緻に描かれている。だがラヒリの作品には、それ以上に鮮やかに提示されているものがある。続きを読む
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